コスプレ研究ページ 60〜70年代。


過去のコスプレについての研究ページ。from 2008。
ここは60〜70年代についてのページです。(100年以上前も若干あり)
by Kohji Molimoto(れくと)

コスプレ史と共に写真史(女性写真系など)を現在更新しています。
バストトップは消してます。いつも通り15歳以上向け。昭和期の美術ヌードの話なので、
義務教育最高学年の中3以上向けくらいかな。
コスプレの人が読んどいた方がいいって事で、今現在は同じページにしてます。
コスプレの人達がもう理解できた・・・という気配になったら、別ページにしようと思ってます。
(あと、僕は女子がAVや性風俗に行く事には基本的に大反対な奴なんで念の為)


100年位前からスタートしてしまってますが・・・
仮装関連をまとめてる内にその辺が重くなってしまったのですが、
読み手に読解力があれば分割するほどでも無いかなぁ・・・と。

掲載画像については、大体ヤフオク出品などでも見受けられる程度の写真位を
基準に考えています。資料スキャンなどはしませんので、
詳しい資料などを探してる方は自己入手の方針で宜しく。

All texts by Kohji molimoto(れくと)


「劇場版シティーハンター新宿PRIVATE EYES」で冴羽が拳銃無宿のランダル銃使用してておおっと思ったよ・・・
 (2019_3/5 昭和48年の愛知県豊川市での「怪獣大行進&ミス豊川コンテスト」について 更新。
(ジャンプにはIE要) 地元青年部による本格イベント(途中中ほど)。大田区だのコミケだのよりかなり以前。)
(2018_7/31  昭和初期の仮装メインのクリスマスについて、ジュリアマーガレットキャメロンの天使写真、海外バーレスク舞台衣装について )
(2017_8/11 67〜68年頃に、 雑誌「ぼくら」表紙の少年隊員によるウルトラ警備隊コスプレ)
(同  その上に、「拳銃無宿」のランダル銃玩具の発売 について  を更新)
(2016_10/29 ハロウィンなので・・・70年代終盤のアメリカの悪役キャラブームと「自由肉」(w))

(2016_3/7 60年代のウルトラセブンのソノシートに仮装劇を勧める漫画が掲載)
(2015_6/13~6/17 美術やボディペインティング、アニメコミックの 異世界的な肌色のキャラについて ※70年頃の少し下辺り)
(2015_2/24 沢渡朔氏「少女アリス」について(更新継続中・画像追加中)  19世紀の少女仮装写真)
(2015_2/22  カメラ・フィルムメーカーの女性ヌード広告  ゲルトちゃんポスター コミケの成立時からの問題点) 
(2015_2/20  ハニーレーヌさんとキューティーハニー、 6~70年代のハーフブーム、ツインテール萌え関連)
(2015_2/13  67年あたり 「セックスアピールの強い服」って? )
(2015_1/15 70年代後半のアニメショップについて)
(2015_1/13 喜劇王チャップリンについて)
(2015_1/3  全国チンドンコンクール(1955年〜)について 1/6  初期ディズニーファンのファンレター )
(2015_1/1  50〜70年代のウエストレベル撮影について) ←70年辺り
(2014_12/12  万国博覧会とヒッピー、パレード文化と、魚眼レンズの進化) ←70年辺り
( 2014_12/7 捕物作家クラブの仮装行列と、横浜国際仮装行列、 V3マスクとXマスクについて補記)
( 2014_11/28 仮装行列の時代、若干補記。 奥さまは魔女とハロウィン。 11/29 中原淳一氏らのファンの集い 補記。 
(2013_12/27) 20世紀初期の仮装パーティーについて 更新 / 2014_2/5追記
(2012_11/30  カラーウィッグについて 加筆 )

今のコスプレ界に対して思う事、日記にも書いてますので、読んでいただければ。
口調はあれかもしれないですが、しっかりした気持ちで書いてはいます。

最初は日記のページの方に書いていたのですが、
文字数が重いのでやっぱりこのページを作る事にしました(汗
私的研究としてのメモなのでその辺よろしく。
個人の記憶と経験と手持ち資料などによる研究なので、
抜けてる所があってもあまり突っ込まないで下さい
(むしろwikiなどの方が記載が抜けてるか;でも重複はできるだけ避ける方向)

とりあえずスタート!!

1980〜89年頃 コチラ に移動しました。




◎ ハロウィンって事で「コスプレイヤー向けのページ」でも作ってみようかと思ってたんだけど、
  あんまりにも例の連中の攻撃が過ぎるので、ページまで作るとろくな事がないかもしれない。
  ていうか昔からファッションは好き。リカちゃんやジェニーのページだって、そうじゃなくちゃ作らないし。コスプレとリカやジェニーとは違うんだけど、実は共通点もあったりする。
  ただ、一応wikiや各コスプレ評論や各サイトなんかですっぽかされている事もあると思っているし、
  自分のコスプレ観というのは興味の経緯がオタはじまりとは言え普通の人と違うので、そこの所を遊び半分でちょっと列記してみる。個人の覚書ですが。



1960年代以前〜1980年ごろまで


<  ルイスキャロルらによる初期の少女写真における仮装写真 >

  ここは基本的にコミック&アニメ関連のコスプレについての研究ページなんですが、内容が増えてくると同時に触れないわけに行かなくなってきたので一応。
  19世紀後半に、数学博士のチャールズ・ラトウィッジドジソン=ルイス・キャロルによる童話「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」が刊行されました。これは元々彼の知人少女である姉妹のための語りを後に本にしたものでした。アリスの物語は基本的に少女を主人公としたファンタジーですが、その中には数学者ならではの論理ゲームのような物、キャロル自身が嫌悪忌避する大人社会への風刺を少女に対する共感まじりに表現されたりもしています。
  また、ルイス・キャロルは優れた写真家でもあり、アリスを含む彼の知人少女たちの写真を撮影していました。19世紀後半は特に少女写真を撮影する事がイギリス等で流行していた時期で、キャロルもそうですが、普段着、ドレス、時にはヌード写真なども撮影していました。当時の写真家達に撮影された被写体の少女たちは上流階級の子女だけではなく、場末の少女もその中には含まれます。(・・・この段、19世紀ヴィクトリア調好きの人やゴスロリ方には書く必要がない事なんですが)
  そして、この頃少女写真で、仮装的なものが流行しました。被写体の少女にボロ服を着てもらって、少女が乞食に扮装、その写真を撮って一緒に楽しむ、というような事です。(右は有名なアリス・リデルの物乞い仮装写真)
  「少女による乞食の仮装」・・・・これが初期の仮装少女を写真に残した始まりとなります。つまり、自分自身と異なる境遇に変容した姿になる事で、自分自身が恵まれている事を感謝しよう、もしくは私も乞食境遇にある彼女らも同じ人間である、というような意識を高める効果があるとされ、当時イギリスの被写体少女の両親らも、比較的それら乞食仮装を容認していたようです。
  その気分はいわば「ノブレス・オブリージュ」(高貴なる者の義務、富んでいて高貴なる者は、貧しい者に対して何らかの社会的協力をするべきだという考え)的な教育の一環にもなりえる、という考え方だったわけです。(ノブレスオブリージュ自体は、漫画やアニメでも結構モチーフになっている。最近では「明日のナージャ」とか、昔だと「キャンディキャンディ」などもそうなのか。フィーリングとして近いのだと「家なき子」「ペリーヌ物語」等。童話で一番解りやすいのだと「王子と乞食」なんだけど。これはアメリカのマークトウェイン原作だけど、舞台は16世紀イギリス・・・日本語訳は村岡花子・・・)
  (後注: 乞食に扮している少女側にしてみれば、しがらみに管理されない自由な存在になりきれるという所が、現代のコスプレ少女に近いのかもしれません。まぁ現代のコスプレイヤーはそこでも制服とか軍服とかしがらみを持つわけですが。日本の子供が持つ「もしかして自分は捨て子ではないか?」や「自分は橋の下で拾われたのではないか」みたいな妄想の表現に近いです。 後注終わり)
  当時の少女ヌード写真については、まだ当時は芸術以外のヌード表現があまり過激化していなかったので、比較的おとなしかったと言えます(まぁ当時のヨーロッパ秘本や日本の浮世絵の枕絵もあるにはあったが;)。・・・去年三菱一号館美術館の「ザ・ビューティフル展」(感想こちら)に行ってきたんですが、ルイス・キャロルとは、バーンジョーンズ、ウィリアムモリス、ロセッティ、モーガンら19世紀イギリス唯美主義系の作家画家らは親交があったという事なので。ルイスキャロルの少女写真は、全般にイギリス唯美主義系スタンスの写真だと考えるのが正解だと思います。着想的構図的にそこまで至っているかと言えば議論の余地はありますが、貴重な写真記録である事は議論の余地なしです。
  19世紀の彼らのモノクロームの写真はその後にも伝わり、着彩などされて、近年のアート作品にもなっています(1970年代の野中ユリさんの19世紀少女写真着彩など)。    (2015_2/24 17:34)

◎ 1800年代後半には、英国人女性写真家のジュリア・マーガレット・キャメロンが、当時の子供の背中に羽を付けて仮装させ天使に見立てた写真を撮影しています。( http://www.atgetphotography.com/Japan/PhotographersJ/Cameron.html など参照)
  人目に触れる天使コスプレ写真の原点とも言えると思います。キャメロン展は最近でも三菱一号館美術館(東京駅近く)などで開催されています。(この美術館は19世紀イギリスに強い。 2018_7/31 12:05)
  

<  仮装パーティーについて。20世紀初期の話(2013年末にもなっていきなり・・・百年前の話) >
     2008年にこのコスプレ研究ページを開始して以来、主にアニメ漫画ゲームなどのコスプレ(仮装)についてとりあげているんだけど、例えばルイ王朝期にも行われていた仮面舞踏会のような着飾り方と現在のコスプレはかなり違うわけで、
   それは仮面舞踏会が「顔を隠し身分を隠して匿名化して着飾って社交する」ものであるのに対して、コスプレというのは「何者かの扮装をしているのに、何者かを演じたり演じなかったりする。社交性もあるがナルシズム目的で社交性を求めない場合もある」って事で、
   まぁその演じる対象がいつの間にか3Dから2D(二次元)のメディア(映画、漫画、アニメ・・・)になってきたという不思議があるわけですが、
   仮面舞踏会からその差が生まれてきた過程に仮装パーティーがあります。
   仮装パーティーというものが行われ始めた時期は、フランスのベル・エポックの時期という事になります。ベル・エポック(フランス語で良き時代の意)の時期=19世紀末から第一次世界大戦前後のパリが華やかだった繁栄期にはシャノアール(黒猫の意)などのカフェで多くの小説家や詩人や画家など、文化人たちの交流がありました。シャノアールの時代には平面の映像文化として影絵の上演などの文化もありました。
   当時日本人で当時のベルエポックの文化にひたっていた芸術家は画家の藤田嗣治です。彼はフランスに渡航して最初に会話した人物がピカソというほど最初からフランスの芸術文化に溶け込み、同時にモディリアーニやキスリング(結構好き)などの画家との親睦をも深めていきます。(写真は1960年代の本より。他の本にも載ってます)
   その頃パリのモンパルナスには、彼らの他、ユトリロ、ローランサン、パスキン、写真家のマン・レイ、詩人のランボー(高校の時よく詩集読んでたなァ)他、多くの文化人やモデルたちが集まっていました。
   そこで集まっていた人々が仮装パーティーなどをしていました。藤田もアルルカン(道化役者)などの格好をしていました。写真を見る限りでは、世界各国の民族服の格好をした人々(スイスなどの民族服)や、サーカス系の格好、ガイコツ服、原始人の格好などです。彼らは本当に仮装を楽しんでいたようで・・・藤田の場合は、パーティーでなくとも平日にギリシャ時代の衣装などを着て町を歩いていたようです(まぁ、ネットにもそう書いてる所がある)
   この辺の仮装は、自らを着飾るというより別の国の民族や別の職種、別の時代の人々や死後の存在などになりきる行為です。演劇的と言ってもいいのですが、必ずしもパフォーマンス必須とも言い切れず、少し違うかもしれない。
   藤田嗣治がフランスで当時存命人物として最初に認められた日本人画家である事を考えると、感慨深いです。その彼がフランスで絵画を描きだした初期がベルエポック期であり、仮装文化にも親しんでいた。いわば絵画という平面ジャンルの仕事でフランスに渡った日本の先端の人物が、フランス本場の仮装パーティーと接点を持っていた。
   いわば日本初の海外コスプレイヤーはフジタなわけですね。(いや、書いててミーハーっぽい文だと思うが、今の時代は非常にミーハーなので、誰がこの点に着目してもそういう書き方になってしまうと思う。演劇界では蝶々夫人を演じた女性がいるし)
   藤田がフランス美術界に認められるきっかけになった絵画の裸婦モデルをしていた「モンパルナスのキキ(アリス・プラン)」(キスリングやモディリアーニのモデルもしていました)は、藤田に描かれると同時に自ら藤田の絵も描いていたそうです。つまり双方描く側にも描かれる側にも回っていました。そこにも画家、モデルを越えた「平等性」があります。その関係性にヒエラルキーはありません(売れる売れないは別問題)。
   自由・平等・博愛の国であるフランスの、ベルエポック期のパリで、作家たちのコミュニケーション手段として仮装パーティーが流行していたのは象徴的です。仮装同士だからじゃなく、作家同士モデル同士だから楽しい。創作行為をしている者同士のコミュニケーション手段だから楽しいのであって、そこで双方を食い物にする連中が幅を利かせてくると楽しさは台無しになるわけですが。日本は今やそんなイベントばっかしじゃん。がっくし。
  画家や作家やモデルなど同士のコミュニケーション手段として、藤田嗣治氏が仮装パーティーに参加していたのは、その後の仮装パーティー→コスプレパーティーを考える上で原点的に大事な事なので、そこはこのページにて押さえておきます。(2013_12/27 )
  ※ 右は藤田嗣治画集。藤田氏がパリから一時帰国して凱旋展覧会をした頃の本で、昭和4年初版本。以前購入した私物です。カラーページもあり。一昨年の渋谷bunkamuraの回顧展の展示作品も掲載。


  (※ まぁつまり。「イベントは「交流の場」ですよ」などとうそぶき、その実は表現者と表現者を直接的に(氏名などを明らかにして)関わりがたい現代において、イベンターのみが双方の住所氏名など個人情報を知って握って双方を「どうにでもできる」同人コスプレイベントの現状というのは、明らかに出会いをネタに「食い物」にする連中が幅を利かせているのだ、ってのと同義だと思います)


  P.S. 先日「前田寛治と小島善太郎」展に行ってきた。この二人とその仲間の日本人留学画家達は、日本からパリ留学に行った日本人画家で(帰国が1925年で、フジタより若干後にパリに行った人々)、帰国後1930年会というのを結成したり、パリーでも日仏親善「フェニックスの会」という親睦会を作っていた。
  で、小島善太郎が後年八王子在住だったので八王子夢美術館でも氏の作品が所蔵されていて今回の展覧会となったんだけど・・・右の写真はフランス留学時の「フェニックスの会」でフェニックスに扮した小島氏の写真(図録の写真のデジカメ撮影)。いや、このままフェニックスのポーズなどは取らない多分・・・(黒執事をちょっと想像した)
  ていうか、フジタの方がパリに行ってるのは早いので、仮装もフジタの方が多分早いんだけど、写真自体の時期はこちらの方が多分前になります。
  ていうか、親睦会の象徴としてのフェニックスキャラを自分で仮装している点では、結構すごい例だと思うんだけど。親睦パーティーのアイコンキャラを自ら仮装しているのがやはり画家だ、という時点で。展覧会の感想は美術感想ページでまた後ほど。(2014_2/5 5:08)
  

◎ 昭和初期の日本では、クリスマスは仮装をできる日として認知されていた。wikipediaなど参照。以下wikipedia転載。
  「1928年(昭和3年)の朝日新聞に「クリスマスは今や日本の年中行事となり、サンタクロースは立派に日本の子供のものに」と書かれ、「昭和初期の頃、銀座、渋谷道玄坂から浅草にいたるまでの多くのカフェや喫茶店においてはクリスマス料理の献立を用意し、その店員はクリスマスの仮装をして客を迎えた。」
  「1931年(昭和6年)12月12日の都新聞は、「七千四百余のカフェと二千五百余の喫茶店に華やかにクリスマスが訪れサンタ爺さん大多忙を来たす」と報じた」(以上wiki転載)
  仮装の光景については、以前「フルタ家の不思議なテレビ」(NHK)でも当時のフィルムが放送されていましたが。サンタのみではなく、多種多様で、クリスマスと行列のない仮装をミックスしたような感じだったようです。今でいうハロウィンの代用日的位置づけでもあった。
  ちなみに、赤い服にあごひげのサンタクロースの服装は、1931年のコカコーラの広告のスタイルで、そのインパクトがあまりに強かったので以降のサンタクロースはそのようになったとされているので、上の時期の昭和3年のサンタクロースイメージは、必ずしも紅白イメージではありません。まだコカコーラ広告前なので。
  バブルもびっくり!? 戦前昭和クリスマスの狂乱っぷりがスゴかった によると、森永製菓主催など、企業が子供向けクリスマス会の主催する事が多くなっていったようですが、
  その後1930年代には人種混交化したり自由な仮装イベント開催が増えてくる(僕はクリスマスイブが誕生日なのでそういうクリスマスイブはOKだが)。一部はいわゆる大人のエログロ化したり(まぁ罪が無ければ・・・とは思うが色々あったろうなぁ)、ジャズを流したり、明治大正までの宗教色イベントとは切り離されてきて、結局「仮装舞踏会の催しで、水兵や奥女中にふんしたダンサーと、おどけたペーパーハットや目かくしのマスクをかけた踊り客」のいる所に「満州事変が起きているのにクリスマスとは何事か」と汚物をまく軍国的愛国主義者まで現れたりしたらしい。
  やっぱり軍国的愛国主義者って嫌なもんなんだなと。クリスマスの敵だなと。でもほぼこの光景って今のキャラ系コスプレと軍装コスプレとの対立まんまではないかとも思います。要は軍装コスがアニメコミックゲームのコスプレに介入したがるのは、国家支持を傘にきて偉そうにしたい、って事ね。
  国家総動員体制下、クリスマス会は消えていったそうです。森永はクリスマスイベントを中止しました。(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50567)(2018_7/31 10:38~11:38)
  なので、元々「キリストとコスプレ?関係ねーじゃん!」というのは、こと日本においてはもともと違います。(2018_7/31 10:53)

 ◎ 1800年代末など、海外のバーレスク舞台などのコスチュームに、ファンタジーや神話や古代など様々なモチーフの舞台衣装が現れたりしてきます。妖精や動物に扮したものなど。色々ネット検索してみると面白い舞台衣装の画像があると思うのでコスプレの方は参考までに。
  その後昭和初期には日本においても「戦前の東京・浅草において軽演劇、浅草オペラなどが発展し、榎本健一らが無声映画に参入するとともに、バーレスクは日本映画に導入された。」とありますが(バーレスク、wiki参照)、日本におけるバーレスクは主にヌードダンスの事で、つまりそういうヌードダンスと上記海外文化の接点のようなジャンルが流行していました。現代のコスプレのイメージを遡行していくとそういうビジュアルイメージもあるかもしれませんが、二次元メディアの仮装化では無いとも思います。(7/31 11:55)


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 ●ハロウィンなどで特に昔のホラー映画などに出てくる吸血鬼や指輪物語に見られる耳の長い妖精などの扮装を子供たちがしたのが、コミックやSF映画のコスプレに移行したのがキャラクターコスプレに移行した始まりかもしれない。これは多分日本も同じだと思う。
 ただ、仮装行列の原点としてはリオのカーニバルに見られるようなものの方が古いわけで、カーニバルなどと仮装行列やコスプレとの違いは、神や超自然的存在への祈りの有無の差である。
(少なくとも表面的には宗教とは関係ない。実際にアニメキャラがファンにとって神仏に等しい存在としても)


 ●今でいう架空のキャラクターへの扮装と言う意味で、海外でスーパーマンより早期にファンが扮装を行なっていた例としては、20世紀においては明らかにシャーロックホームズや怪盗ルパンなどのキャラクターであると思われる。
  シャーロックホームズのファン=シャーロキアンの最初の団体(ベイカーストリートイレギュラーズ)は1934年にスタートしている。日本に江戸川乱歩氏らによるバリツ支部というのが存在していたらしい。
  江戸川乱歩といえば「怪人20面相と明智小五郎、少年探偵団」シリーズだが、当然これらの探偵もの作品は学生の文化祭や学級演劇のネタにもなっていたようです。当然これら探偵小説系のキャラクターは、仮装ネタのキャラとしても魅力があった。(怪盗ルパンも世をしのぶ仮の職業は、探偵。)



 ●  日本での平面イラストキャラクターの衣類をファンが自作してイベントに着ていった例の、
  最も早い例は、昭和20年代の「中原淳一氏主催のひまわり音楽と舞踊のつどい」です。
  下に書いているように、あくまで昭和3〜40年代の男子は男の子向けなどのキャラをボール紙製作や着合わせで仮装表現したのに対し、女の子は縫製ができちゃんとした衣類を好むわけですが、
  なぜ女子が和服ではなく「洋服」を自力で縫製できるようになったかと原点をたどれば、
  中原淳一や内藤ルネなどが携わった、「ひまわり」「ジュニアそれいゆ」などの少女向け雑誌を見て、お裁縫や衣類作りに挑戦してみる、という行為が原点になっていると考えられています。(主に昭和2〜30年代)
  イラスト紹介された衣類を作るのであれば、いってみればそれも掲載イラストキャラへのなりきりと言えなくもない、のかもしれない。

● 補記: つまり、その「中原淳一氏の挿絵イラストの美しい少女キャラクターの衣装を、型紙に、もしくは立体裁断で製作する」という行為は、平面キャラの服を現実の少女たちの衣装にする行為そのものです。
  少女たちにとっては、その「平面キャラの服→縫製、立体化」の、長期に渡る試行錯誤の時代を経て、平面の漫画キャラの服が自由に仮装される時代がおとづれる事になる。
  重要なのは、中原淳一氏や内藤ルネ氏などのひまわり社が「季刊服飾雑誌それいゆ」「月刊少女雑誌ひまわり」「ジュニアそれいゆ」を発刊した当時(厳密には昭和23年(1948年)9月)に、   「ひまわり音楽と舞踊のつどい」が共立講堂で開催され、以降愛読者のつどいとして毎月開催されていたことです。
  この当時は手塚治虫氏もまだデビュー間もない頃だったのでファンのつどいなどあったかどうかわからず、平面のイラストキャラの作家さんの「ファンの集い」としては最初期のものでした。(中原氏らは人形など立体作家でもありましたが)・・・アニメなどの平面キャラを含めても最初期だと思います。
  そしてこの愛読者の集いにやってくる少女たち大勢は、ひまわり誌などで掲載されたデザインを自分で縫製した衣装を着て、会場に集まって来ていたそうです。 ( 2014_11/29 6:24 )
  →は以前日記に掲載した資料本の画像。他にも数冊ありますが・・・。
 ( 「イベント」に「ファン」が「2次元から起こして自分で作った服」を着て通っていた最も初期の例として、項目位置を上げました。 2014_12/7 21:37 )
  

○ 上のひまわりイベント開始の若干後、「日本作家クラブ」の前身「捕物作家クラブ」(時代ものや推理もの作家より構成。野村胡堂氏が初代会長)が、浅草で「捕物まつり」という没後作家慰霊祭兼文士劇イベントを開催しはじめます(初回は昭和24年7月)。それと同時かはわからないですが、浅草国際通りで、クラブ主宰の仮装行列が開催されはじめるようになります。推理と時代物基本なので、ホームズや時代もの仮装はここから拡散したと考えて良さそうです。
  さらに昭和28年には横浜で「国際仮装行列」(現・よこはまパレード)というパレードが始まるのですが、
  仮装というかこれは制服やコスチュームを着た各チームによるチームパレードに近く、後に日本各地の市町村で企画開催された仮装行列とはちょっと違います。コスプレの解釈で言えばすごく拡大定義された特殊な制服や和装を「仮装(本職じゃない人が仮に着ている・・・)」と言っているわけなので。だから30年代以降の一般的仮装行列のイメージともちょっと違いますね。ごった煮的ではなく、チーム的です。
  ただ、それでも2回目からローマの休日のオードリーヘプバーンの仮装などがされていた?り、昭和31年第4回ではゴジラがフロートで登場していたようです(公式参照)。映画から題材を取ったコスプレの始まり。
  昭和パレード文化と当時の撮影常識については下の方の70年代前後の項で。  (2014_12/7 22:05)



◎ 日本の漫画アニメのブームの前に、海外映画のキャラクターとして最も愛され仮装もされた人物といえば、無声映画時代の映画俳優で映画監督でもある、チャップリンです。人生の光と影と喜び悲しみや人間のおかしみなどを抒情的な映画であらわすに至ったイギリス人喜劇王チャールズ・チャップリンは日本で最初に最も知られた映画俳優でもあります。「街の灯」「モダンタイムズ」「黄金狂時代」「サーカス」「巴里の女性」などで有名(僕は街の灯等が好きです)。初来日は1932年(昭和7年)だそうです。
  チャップリンは、山高帽にちょびヒゲ、上着と合わないだぶだぶズボン(ピエロもだぶだぶズボンですが)に大きな靴というスタイルを一貫して通し、各映画に出演していました。(右写真はフリマの知人ディーラーさんに撮らせてもらった映画「キッド」のポスター。レプリカ?)ポスターにはこの作品のためにチャップリンが1年かけた事が書かれています。人気爆発でありながら、一本6リールの映画に1年かけるという完璧主義。(つまり完璧主義の映画監督という概念がすでに戦前からあったという事)
  映画は昭和初期から人気爆発しており、その人気とあいまって後に日本の多くの男性たちに(女性たちにも)仮装されました。戦後は1961年(昭和36年)にも来日しているので、それでなお更、広い世代の日本人にチャップリンが愛されたとも考えられます。
  また、チャップリンがそのスタイルを崩したのが、1940年(昭和15年)に海外で公開された「独裁者」です。彼はこの作品でナチズムに反対し、一般人のユダヤ人の床屋と、彼にそっくりな独裁者の二役を演じます。いわばナチス軍服のような服を仮装しながらその独裁主義を批判してみせたわけです。映画のラストの演説は非常に有名です。
  おそらく、ナチス軍服は第二次大戦の前から、仮装においても、批判対象として扱われていたわけですが(新聞漫画による戯画化も含む)、しかしコミケなどではここ30年以上「ただカッコいいから」とか「思想を抜きにして」ナチス軍服を着るコスプレが続いてきたわけで(しかもナチス軍服をコミケ直営店が 売り続けて きたわけで)、それをチャップリンが見たらどう思うのだろうか?というのをたまに考えます。
  ともあれ、昭和の仮装行列にはかならずチャップリンの扮装姿があった事は間違いありません。それくらい偉大な映画監督・喜劇俳優であり、彼のスタイルは有名です。 (2015_1/13 4:16)




 ●ちなみにアメリカヒーローとしては(もっと古いものもあるかもしれないが)少年向けに Batman Halloween costumeというライセンスコスチュームが1965年に出ている。(某資料によると、こんなのらしい→)
  耳つきバットマンの頭巾と服とマントなどのフルセットで、これが66年になると頭巾が目まで隠すテレビに近い形の頭巾にバージョンアップして、バットマン、ロビン、スーパーマンが出るようになる。この辺がヒーローキャラのなりきりグッズの黎明期に近いと思われる。世界SF大会でのコスプレブームもこれを受けた形かも、しれない。
 ●これは、アメリカのSFドラマ「スタートレック(邦題:宇宙大作戦)」1966年9月の開始より若干早い時期という事になる。この後スタートレックのファン=トレッキーたちによるムーブメント(&コスプレブーム)が来る。
 (補:スタトレは放送直後にファンクラブが出来、2クール打ち切り発表と同時にファンはデモや投書で1クール延長決定させた。)


 ●ちなみにモンスター系では「大アマゾンの半魚人」などのセルロイド製のお面のついたハロウィンコスチュームセットが販売されていて、もしかするとそちらの方がバットマンなりきりセットより若干古いかもしれない。コスプレとハロウィンとは切り離せない。(某誌写真→)
  

 ● 仮装行列はこの頃既に存在している。(※ネットで「昔 仮装行列 昭和」などで調べてもかなり古くからある。例えば月光仮面や、大村昆さんのTVコメディーの仮装など。)
  町内会や各学校など、様々な地域で行なわれた仮装行列が、日本におけるコスプレの原点と言える。仮装行列はいわば祭りと同じなのでカメラ撮影などはおそらくどこも基本的には自由だった。(写真を撮られると魂が抜かれるから嫌だ・・・という風潮はまだ残ってたかもしれないけど、肖像権云々の問題は今ほどきつくなかったと思われる)

 ● 仮装行列や仮装大会などは昭和2〜30年代に既に各都道府県の各県各地で催されていた。
   仮装ネタとしては、シャーロックホームズや怪盗ルパン、怪人二十面相や、海外ではドラキュラやターザンなど。ほぼありものの着合わせで出来るキャラなので、小物にこだわるのはその頃から(ホームズのパイプやハンチング帽、怪盗のハットなど)
  また、昭和2〜30年代は日本映画が娯楽として隆盛を極めていたので、鞍馬天狗、旗本退屈男(早乙女主水之助)、大石内蔵助(四十七士討入)、丹下左膳、四谷怪談のお岩さん、番町皿屋敷のお菊さんなどの幽霊キャラが仮装の定番でした。
  (当時の映画の隆盛ぶりはすごく、都内在住だったウチの母などは中学時代に毎週のように東映の三本立ての時代劇に家族と行っていた。当時の三本立て映画の入場料は中学生一人50円で、余裕で見れたそうだ。
   うちの母は写真で見ると若い頃結構かわいかったようなのだが、何で女優になろうという発想にならなかったのと聞いてみると、
   「だってお姫様ってみんな映画で池の中に飛び込むじゃない?あれは絶対無理だな嫌だなと思って・・・」との事でした。何度聞いてもそう答える。池ポチャが理由かよ!!^_^; )
  ・・・さておき。今「時代ものコスプレ」と言われているものは仮装行列の時代が原点。本来はコスプレじゃなく、「時代もの仮装」というのが正統的な筈。
  また、ちんどん屋さんが盛んだった時代なので、日常で子供が仮装を眼にする機会は普通に多かった。(2014_11/28 21:18)


●  アマチュアではなく日常の職業として仮装状態で町中を練り歩く人々と言えば、昭和当時のチンドン屋さんが思い浮かびますが、
   昭和30年に富山市と富山商工会議所の発案で、「全国チンドンコンクール」というチンドン屋さんコンテストのイベントが開催されるようになります。(僕は小4〜6まで同県に住んでいたので、ニュースや新聞記事などで見た事があります)
   2014年まで毎年開催されている由緒正しいイベントで、その後名称が「全国チンドン選手権大会」となり現在の「全日本チンドンコンクール」となりました。
  昭和33年に宇津井健らのロケ隊がパレードにからんだり、第5回〜11回まで、松竹・大映のスターたちが参加、5回→28回まで各地方の民謡踊りの隊なども参加したそうです。また、第6回には、青い目にカミシモのアメリカ人チンドンマンが特別参加していました。公式サイト(http://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/cin/top.html)によると、「横須賀海軍基地の将校や軍属で、在日外人慈善団体のメンバー。TV「私の秘密」でも紹介された。」との事です。海外でも「A "chindonya" japanese sandwichman contest 」と紹介されたそうな。 つまりsandwichman扱いなわけだね。
   昭和56年(1981年)からは市民仮装コンクールも併催されます。これは70年代末以降の「欽ちゃんの仮装大賞」によって仮装再燃した可能性も大です。地元のサンバチームも誕生。(同サイトより)
   右写真は、1971年某カメラ誌投稿欄の、同コンクールの写真です。昭和感あるな〜!!  (2015_1/3 4:15)



 ● ただ、昭和34年には某地方新聞に「危険な遊び」というタイトルでコスプレが記事にされた事があったらしい(事故があったらしい)。この折、月光仮面の仮装をした子供の写真が記事の参考用に載っている。事故についての詳細は不明(80年代マイアニメ誌の太古コスプレコーナーに当時写真が掲載。写真のコスプレ自体は事故とは関係なし)
   ごっこ遊びが扮装に繋がるに従って、危険度が生じる問題が取り沙汰された初期の例かもしれない。(2/25)


 ● 戦後の日本はディズニーからのアニメ映画を輸入して上映していました。
   日本でも短編アニメ映画が戦前に、戦中には長編アニメ映画も作られ、1958年にはカラー長編アニメ映画の「白蛇伝」も作られていますが、
  基本的に戦後〜昭和30年代までのアニメ映画の世界はディズニーの独壇場でした。コミックなどでは日本国内ものが流行っていたわけですが、まだまだ量産面ではディズニーに及びません。
  同時にディズニーは多くの心ある「子供向け実写映画」を製作し、アニメと同様に日本で上映しました。
  小学校の児童劇などでも「シンデレラ」「ピノキオ」などはあっただろうし、それぞれお手製のドレスや衣装などを着て演じられていたはずですが、やはりディズニーアニメによってそれらが拡散した所はあると思います。例えば不思議の国のアリスのアリスの「金髪に青い服」というイメージはディズニーにより敷衍されました。
  (ちなみに戦後初のアニメ映画は横山隆一氏の「おんぶおばけ」(後にNTVでカラー版が製作)だったようですが、一般には上映されていません)
  
  いずれにしても日本のアニメのファンクラブなどはまだ存在していない頃なのですが、
  昭和30年代の半ば頃、講談社がディズニーと提携して「講談社のディズニー絵本」を毎月刊行していました。
  作品を見て感動したディズニーファンがディズニーにファンレターを送りたいと出版社側に希望したために、
  絵本の読者投稿コーナーに時折、ディズニーさんのおすまいという事で、ウォルトディズニープロダクションの当時住所が紹介されています。
  この本の読者は小学校くらいまでなので、その年代の子供と親が一緒に、相当数のファンレターを航空便で出しているようです。(右は1961年=昭和36年の告知文)
  プロダクションの住所の紹介は、1度ではなく複数の絵本で数回書かれているので、かなりの人がウォルトディズニー氏へのファンレターを日本から出していた事になり、
  公式のアニメファンクラブなどが出来る前にアニメファンが国際的に動き出した、本当に最初の頃の例だと思われます。ウォルト氏も日本の子供からのファンレターを読んでいたんでしょうね。
  日本の「アニメファン」の子供たちが、国際的に活動を始めた瞬間でもあります。

  実は当時的には「ファンレターは例え海外でも相手の所に自分で送る」が当たり前でした。
  昔はファンレターの手紙は、(一度出版社で預かるのではなく)直接誌面に漫画家の住所などを記載するケースが多かったようです。
  例えば当時の有名少女漫画雑誌(少女フレンド等)でも、出版社お抱えのフリー化していない女性漫画家などへのファンレターのあて先は雑誌編集部気付なのですが、柱になる漫画は有名なフリー漫画家に描いてもらうケースが多く、それらのファンレターのあて先は、有名漫画家さんの自宅やプロダクション住所になっています。 

  テレビアニメ第1作、「鉄腕アトム」の放送開始は1963年1月1日です。 (2015_1/6 5:33)



 ●日本での一番最初のキャラクター(なりきり)トイは少年ジェットのジェットガンである(北原照久氏談)。なりきり系もその頃からライセンスつきのお面などが増えてきたと思われる。
  一番なりきりしやすかったのはおそらく「月光仮面」で、長袖シャツと白いももひき(タイツ?)とサングラスと銀玉鉄砲2個(当時銀玉あったっけか)とシーツで作ったマントで誰でもなりきりできた。ターバンを作るのが面倒くさければお面か紅白帽+予防マスクに月の飾りを切って貼るだけなので一番コスプレしやすかった。
  また、「まぼろし探偵」もかなりなりきりやすいキャラクターだった。上下黒のジャージなどであの特徴的なマスクを紙にマジックで書いて、家族にベレー帽を借りればなんとかまぼろし探偵になる。

 ●そういう自作的観点からいうと一番子供に作りやすいのはオバQかロボタンだったのではと思う。シーツかボール箱の切り貼りで出来る。パーマンも同じで野球帽を前後変えして紙に書いた目と耳を貼ればいいだけ。ボロット(丸出だめ夫)は凹凸多いので難度が高かったかもしれない。

 ●で、この手の仮装(コスプレではなく)は、日常の遊びでも行なわれたけど、幼稚園や学校のたまの演劇でもしていた所があったのかも。漫画のキャラを教室劇などで推奨するかという問題はあるか。


● 補記: そんなわけで、30年代に完全に入るとテレビの月光仮面やまぼろし探偵、少年ジェットなどの仮装も増えてきます。
   この頃のブームで漫画からのもっとも仮装でポピュラーなキャラクターはオバケのQ太郎や鉄腕アトムなどです。オバQの連載開始は昭和39年。アトムの連載開始は昭和26年。オバQは当時キャラクターグッズセールス一位だったり、爆発的なブームを記録していた。
   オバQの場合、シーツをつないで眼口を描いて、三本毛糸の毛を付ければオバQなので・・・シーツさえあれば極めて簡単。アトムの場合ほぼブルマタイプのパンツと長グツだけでも髪型がなんとかなれば、なんとかなる。
   藤子漫画では、怪物くんの連載が1965年(昭和40年)からで、これも子供(怪物王子)がモンスターを従えるという構図の話なので、仮装しやすかったと思うけど、狼男とかフランケンはさすがにやりづらそう。
   漫画系ではサザエさん一家などの新聞漫画からの仮装もあったようです。この時代は全国的にそんな感じで、仮装大会や仮装行列が、仮装のための晴れ舞台になっていました。 あとは高校大学などの文化祭や学園祭。 2014_11/28 21:20 )


 ●お面でなりきるという意味ではウルトラマンもそうですが、初期は意外と変身アイテムをみない。ウルトラアイ(無版権あり)は有名だが、当時品でベータカプセルの玩具ってあっただろうか?みんな懐中電灯で代用してたと思う(スカイドン回のスプーンは子供たちの行為を逆にギャグにしたのだと思う)。逆にアラシのスパイダーガンの玩具や科学特捜隊のヘルメットの方が有名。


 ●ネット検索したところ、当時のウルトラマンの版権ものお面の目の形がセブンの目に似ているらしく(ウルトラマン「怪獣殿下」の回に登場)、お面からセブンの目の形が決まった可能性がもしあるとすれば、セブンのデザインもなりきりを意識していた可能性はある。定かではないけどね。


◎ この頃、「奥さまは魔女」が日本のテレビでオンエアされ始めました(TBSテレビ火曜21:30 1966年2月1日〜)。
  みんなも知ってるサマンサとダーリンのどたばた喜劇を描いたこのドラマでは、特殊撮影として合成などフィルムを使ったトリックが多数使用されて大人気でしたが、
  ハロウィンの時期が「万聖節のお祭り」として数回話のモチーフに扱われています(視聴者だった昭和40年代当時の僕らは、奥さまは魔女の放送でそれでハロウィンがどういうものであるかを知った)。
  で、大体絵本から抜け出した小柄なかぼちゃオバケや魔女たちなどが街中に出て大騒ぎになる、というパターンでした。
  それ以前の日本で万聖節のお祭りがあるかと言えばそれほどでも無いわけですが(占領直後のGHQがお祭りをした可能性はあるかも。むしろ沖縄なら、返還前からでもありそうですね)、
  ただ、ハロウィン自体は日本でも当然知る人は知っていて、
  写真家の沢渡朔氏が実質的なデビュー作である1963年の「ハロウィーン」などを撮影し日本広告写真家協会の奨励賞を受賞しています。(それらはカメラ毎日ジュニアで1970年に特集掲載。その頃の連載のため、沢渡氏は横浜や横田基地などで撮影していたそうなので、米軍基地や米軍ハウス(僕の知人社長さんが米軍ハウスに昔住んでたらしい)のある近くではハロウィンも結構知られていたようです。)
  カメラ毎日ジュニアは、当時の少年カメラマンのための雑誌です。そこに沢渡氏の作品掲載されていたという点では、ハロウィンを少年カメラマンたちに知らしめた点で、結構意義あると思います。
  (※ 昭和40年代から、子供番組ではカボチャをくりぬいたおばけランタンの作り方も紹介されていました。)
  ともあれ、奥さまは魔女のおかげでイメージとしてはみんなハロウィンを理解できるようになっていたわけで、その後ハロウィンは、ホラー映画「ハロウィン」や80年代のスピルバーグ映画「E.T.」(物語時期がハロウィン)で、明確に日本にも認知されるようになりました。
  (その後のアメリカ銃社会を象徴する悲劇=日本人青年がハロウィンの仮装である家を間違って来訪、撃ち殺されるという事件・・・もありましたが)  (2014_11/28 21:46-23:24)


◎ この頃からコスチュームにおける「表現」の自由が意識されてくる。
  右の写真は、辰巳書房の「Beauty Magazine」の1967年(僕の生まれ年だー;)の号。この雑誌は、海外各出版社のヌード写真を集めて紹介している本で、基本的に日本人は載ってないんだけど、この号では、「若いSex Apeeal」というタイトルで、若い女性のヌードが載ってます(一応本の白黒ページに掲載されているグロリア嬢(美人!)は17歳と書かれているけれど、もうちょっと年齢が上って気もする。綺麗です)
  で、本題はこの頃既に「セックスアピール」って言葉が使われてる事。例えば今でも主に「セックスアピールの強い服」のような使われ方をする言葉ですが、先日下(↓)の方のパレードのあたりでも書いた通り、「アピール」=「表現」、つまり、セックスアピールってのは、「性表現」という意味です。
  つまり「セックスアピールの強い服」=「性表現(性的表現)の強い服」って意味。
  ここから大事な事を書くので、特にレイヤーの子達は大事に読んで欲しいんだけど・・・例えば、一般に言うセックスアピールの強い服っていうのは、胸元が開いているとか、ドレスで背中が開いているとか、へそだしだとか、チャイナドレスのスリットだとか、下着があえて見えるとかタイツにサスペンダーを付ける、などを言います。ボンデージやSM系も当然。この辺はそれこそコスプレとかが出来る前から普通に女性がファッションを使って男性に向けてやってきた事だよね。
  (※ ミニスカートはツイッギーが来日した前後から流行しだしたので、それまでは比較的清楚だったりマキシドレス的なものが好まれてたわけだけど。)   で、セックスアピールを女性が何でするのか、というと、つまり「自分は女性としての能力があります」というアピールです。
  女性としての魅力をアピールする、という言い方はよく使われているけれど、根本的に「私はSEXできる女です」「私は肉体的に女性として優れています」っていうのをアピール(表現)するのが、基本です。つまりそれが「性表現」の基本で・・・性表現っていうのは「私は性の能力があります」と知らせる目的が根本ベースです。まぁそれ以前に「自分はどういう人なのか」を表現できてないと話にならないけど。
  特にコミックや文学などで言う性表現というのは、作者自身が「性」に対してどういう考え方を持っているか、っていう表現なので、多少は高度で複雑、確かにやおいやレズみたいな表現もあっていいし、内面表現は僕が短編もののお話書くときも大事にしてます。性的理解力、の表現だよね。
  けれども、一番大事な性表現の基本は「私は性的能力があります」であって。・・・それを規制すると世の中滅茶苦茶になっちゃうんだよね。
  例えば異性に対して、「自分は健康で性的能力がある」という事をファッションなり口頭なり手紙なりで表現できない社会だと、肉体が全うに介在する恋愛が、果たしてできるのか?出来るわけないだろ!って事ですが・・・。それが出来なきゃ次の世代が生まれないから。一般の世の中的には・・・
  (だから男性のラブレターを規制しようとか、ことさら嫌悪する精神ってのは・・・なんていうか幼稚だと思う。こういう事、アニメファンに対して僕は滅多に言わないけども。)
  ※ もっと簡単に言うとセクシーな服・・・sexyは和訳すると「性的な」と言う意味で、これは中国でも「性的」と書きます。「sexy♪」=「性的ー♪」です。
   まだ自分を性的対象として見ないで欲しいのなら、セクシーな服は着ない、っていうのが重要です。逆にそう見ていいのなら、着てもいい、って事で・・・単純。

   話を元に戻します。・・・けれども現在、コスプレイヤー達の着ている服で、いわゆる露出系コス(露コス)は、はっきり言って本当に露出度が激しいです。
  ていうか上に書いた「セックスアピールの強い服」の要素を、ゲームなどのキャラクターの服はかなりの確率で持ってます。
  言ってみれば、昔の(現代でも)「セックスアピールの強い服」以上の露出度の服を、キャラクターが着ているからといって平気で着ているって事だよね。僕も男だから露出コスは好きだけど、そこは着ている女子の側が「自分はセックスアピールの強い服を着ている」と、意識しなくちゃいけないと思う。
  「キャラが着ているから着ているだけ」なのは(僕はアニメファンなので)解るんですが、でも「それに欲情するのは男が悪い」というのは本末転倒で、そういうのを着るなら、そういう男の目線があろうが自分の気持ちをぶらさない覚悟っていうのは持っておくべきだと思います。
  ていうか「セックスアピール」(性表現)の強い服を着るなら、男性や男子がそこに「セックスアピール」を感じるのは当然なので、そういう男がいても責めずに、自分の好みの男の子を選ぶ方がいいよ!!ってのが僕の意見です。
  で、確かに僕らなんかが作品書いたりするのは単に「性的能力がある」ではなく、「どういう子がタイプか?」とか、自分自身のいる場所というか、カテゴリー属性の表現の為でもあるし、ファッション系の子も同じなんだけど(いやヌード系の子も同じだよ)。
  とりあえず、コスプレ(露出度高いキャラの)というのは、普通の人間のセックスアピールより、ちょっと過剰で多少ズレた理屈の上に成立している、一般の「セックスアピールの強いファッション」の世界にいきなりやってきた存在って事です。 
  いや、僕は昔普段着がコスプレだ・・・とか言われてたから、レイヤーの気持ちはよく解るんだが。コスプレ規制には反対なので、念の為。
  (※ ていうか→の表紙の女の子、超かわいい。自分の個人創作の「シガレットチョコ」にαラビットってアンドロイド少女を出したけど、あの女の子キャラは、こういう金髪少女のイメージでした。今は多少イメージ変わってますが、昔だったらそのものって感じです。  2015_2/13 3:34 )

  ※追記:僕自身は、セックスアピール以外に「恋愛アピール」ってのもあるんじゃないかと思うんだけど。萌えアニメ系のような服装とか。
  昔で言えば爆裂ハンターのショコラとティラとか格ゲーのヴァンパイアのモリガン等はセックスアピールで、最近のマクロスFのシェリルノームの各服は恋愛アピールとセックスアピールと両方ある感じ。ラブライブやアイマスみたいなのは恋愛アピール的だよね。ただ、「恋愛」って言っても現実世界だと最後までいっちゃうものなんで、そういう区分け自体無意味なのかもしれないけど。ファンとしては、あの作品の女の子かわいいからそういう服を着たい!ってだけなんだし。(でもそれはこの時代のハリウッド女優のファッションを真似した女性たちもそうだよなぁ。そういう女性たちも「セックスアピールの強い服を着ている」とみんなに認識されてたわけだから)
  ていうか女の子それぞれで早熟度(大人になる速さ)が全然違うわけで、それを一列に規制しようとか言ってる政治は阿呆だとは思う。・・・思うんだが、 って事で上の文を書きました。一般社会における衣服の効果の説明。    (10:01)
  ※※  自分(森本)もネットで「森本はホモだ」というデマを流されて、「僕はノーマルだしちゃんと女の子が好きだ。」と表現しなくちゃならなくて大変だった。性表現って大事だよ。
   あと、日本は親の許しがあれば女子が16歳で結婚可能な国なので、(僕は15〜17歳は過渡期扱いで、誰かがH発覚でも絶対逮捕じゃなく、「一度警察で注意で記録に残す」位がまっとうだと思うが)その辺は女子も「日本は女子は16歳で結婚可能な国だ」と解った上でこの文面の了承よろしく。18歳にならなきゃセクシーコス禁止とかは、あえて言わないので。  (12:02)

  ※※※  ていうか、僕は性表現以前の問題として、「現実に自分自身の好きな人に 対して(口頭でも手紙でもメールでも)きちんと好きだと言う」事が、恋愛表現の基本だと思ってます。これはずっと前から僕はそういう信条。
  つまり「自分自身が現実に好きな人に好きだと言う」事の出来ない人の、コミックやアニメや小説作品 には意味も価値も無いと僕は思ってます(昔から)。
  「表現」の必要な理由、最も重要な理由をわかってない人達の「表現」なんて、無意味で意義も無いものだと思います。
  自分自身が「直に相手に伝えるべき事を、作品にすれば昇華」だなんて「勘違い」です。  (2015_2/16 0:17)



◎ 1960年代頃には、アメリカのテレビドラマの特定作品に特化したような、なりきりアイテム(銃など)玩具が、日本でも販売されるようになってくる。
  画像は「拳銃無宿」に登場した ランダル銃 。拳銃無宿(原題:Wanted dead or alive  1958〜)は、アメリカの名優スティーブ・マックイーンが主役を演じ日本でも大人気になった西部劇テレビドラマで、賞金稼ぎの主人公、ジョッシュ・ランダルが持っているカスタム銃、「ランダルカスタム」の玩具化商品です(以前ヤフオクに僕が出品した時の画像)。結構長期販売されたらしく、いくつかの会社でカラーバージョン複数で販売されてます。いわゆる銀玉鉄砲です。
  ランダルカスタムは早撃ちに特化されたカスタム銃で、すばやくホルスターから抜けるようになどの理由で銃身が通常のライフル銃より切り詰められてます。ループレバーというレバーが付いていて、本来弾丸は二連に見える銃身の下の筒に並んで入っており、これを下に引く事で、下の部分の筒から薬室に弾丸が装填、発射が出来るというものでした。で、そのループレバーをジョッシュランダルが、銃そのものをくるんと一回転させて装填させ発砲するアクションがカッコよく、なおの事人気が出ました。(その他は検索の事です。ちなみに玩具もレバーを装填はちゃんと再現されてますが、単なる銀玉鉄砲なので、回転させると逆にうまくいきません。回すと楽しいですが)
 とりあえずこの玩具が発売された頃がいつかは微妙なのですが、初放送が1959年、再放送が1967年で、そもそも白黒テレビ番組だった事を考えると、結構古い玩具だったんだろうと思われます。つまりそういうなりきり遊びがその頃の子供達の間では行われていたって事みたいです。(ギミックや番組については、フリマでよく合うカメラマニアのおじさんに教えてもらったんですが(感謝)・・・友達に米軍ハウスに住んでた外人の男の子がいたそうで、白黒テレビの他、そういうオモチャが結構あったのだそうです・・・そりゃ子供用でもカウボーイハット位あるだろうから、なりきりはできますよね・・・) 
 ちなみにこの玩具銃の両脇には「We must fight to the end for liberty and peace」(我々は自由と平和のため最後まで戦わなければならない)と刻印されてます。すっごい!!  2017_8/11 5:49〜6:14 )


 ◎ この頃の講談社の少年向け雑誌「ぼくら」の1968年1〜3月号(発売は1967年末〜)に、当時の少年によるウルトラ警備隊員姿と、ウルトラセブンが共演した写真表紙が連続掲載された。「ぼくら」は読者でもあるだろうモデルによる隊員姿の表紙撮影を1966年(昭和41年)のウルトラマン当時から行っているという事で、66年にもウルトラマンの科学特捜隊姿の少年を表紙に登場させています。番組中ではホシノ君がもっぱら科特隊の隊員として登場しているのですが、ホシノ君とは違います。
  特筆すべき所は、「ウルトラセブン」(1968~)の場合、「少年隊員がテレビ番組中に全く登場していない」「テレビに少年サイズのウルトラ警備隊服は出てこない」という事で、つまりこの少年隊員姿は「ぼくら」誌上の少年誌オンリーの露出で、その為に作られた制服だ、という事になります。で、彼は髪型までセブン=モロボシ・ダン隊員のような分け方にそろえているので、つまりこの表紙はモデル兼読者によるウルトラ警備隊のダン隊員のコスプレに近い、という事にもなると思います。つまり最初期の「公認コスプレ」(でも「公認隊員」と言われる方が嬉しいに決まってる)。
 雑誌「ぼくら」からは後に「ぼくらマガジン」が生まれ、それがタイガーマスクの頃に「少年マガジン」などに発展していきます。つまり、今のマガジン系の原点とも言える雑誌です。従って、当時の少年は、テレビと関係なく小さいサイズの服を着てダン隊員に近い姿になりきった少年を、コスプレのように見ていた、という事になります。(服がほぼプロップですので、仮装とはまた違うかもしれませんが、客観的に極めてわかりやすいコスプレイメージの誌面露出という事です)
 ウルトラ警備隊服の表紙の少年は、国立東京教育大学付属小、5年生(当時)の木村正大さん、誌上の「ぼくちゃん新聞」に、セブンが講談社編集部にやってきて、モデルの木村氏が激励された、などのエピソードが紹介されているそうです。(この辺、もう少し情報知りたいんですが、本自体が高額プレミアになっちゃってるので大変ですね・・・「ぼくら」の再録本などに少しでも載ってればなぁという感じですが・・・)  (2017_8/11 5/24)


 ◎ この頃の朝日ソノラマ刊の「ウルトラセブン」のソノシート(塩化ビニール製のレコードのついた絵本)の中にウルトラセブンの学校舞台劇を描いた「ポケットドラマ・ウルトラセブン 学芸会や誕生会でやってみよう」という2ページギャグ漫画がある。子供達の学芸会をモチーフにした漫画で、その脇に空き箱や電球、三角定規などを使った自作怪獣の「ふんそう」の製法が簡単に書かれていたりしている。(怪獣はエレキングに似たシュクダイラーという名前)
  ウルトラセブンの扮装自体も市販ヘルメット?のかぶりものと服の着合わせによって作ったようなものだが、ウルトラセブンと怪獣の仮装(コスプレ)による舞台劇を、子供達に勧めた漫画が全国販売のソノシートに載った事は影響力が大きかったと思われる。ただしあくまでも児童工作描写なので、下の大伴昌司氏の本ほどの製法紹介ではない。
  以下、発行年月日が奥付では昭和43年だが、実際日付より早めに書籍が売られる定例を考えると発売は昭和42年年末かもしれない。丁度僕が生まれた頃。
  (昭和43年1月10日刊行朝日ソノラマソノシート「ウルトラセブン・三大星人の逆襲」・ソノシート奥付には「キャラクター原画=成田享」の表記がある頃の本。・・・でも成田氏はシュクダイラーにはどうみても関係ない)   (2016_3/27 19:53〜20:15)


 ●多分日本で一番最初にコスプレ法の解説として有名になったのは、大伴昌司氏編の『カラー版 怪獣ウルトラ図鑑』(秋田書店刊 1968年)が一番有名です。3歳で千葉に引越してくる直前にこの本(当然重版もの)を買って夢中で読んだ(ルビふってあるので全部僕でも読めました。大体2歳年上向け本を当時は読んでたので)記憶があります。
  初期の版がスペル星人入りで有名な本だけど、この本にはザルを2枚あわせた頭と雑巾?で作った胸でカネゴンの着ぐるみを作ったり、シーツを切り合わせてペスターの着ぐるみを作る方法、頭部をハリボテで作ったケムール人の服の作り方が書いてあって、本当に作れればかなりリアルなコスチュームになる。4歳ごろの自分は真似して作りました。カネゴンもペスターも形はできたけど挫折した・・・理由は絵の具がまだ使えないのでクレヨンでは大きい面積の色塗りができなかったからです・・・。
  ていうかシーツなんてどう塗装すんの。途中で疲れてダウンした。でも相当この着ぐるみにチャレンジした人々は多かっただろうと思う。
  (2009_6/11追:右のようなページでした。当時手に入りやすい品物を使った仮装コスプレ方法で、かなり子供のイメージをくすぐるものがあります。4月放送の「探偵ナイトスクープ」で、このページの仮装に実際挑戦するという企画があったそうです^^;(拡大画像はこんな感じ→ 画像1画像2
  (補記: これらは当然、子供達の日常の遊びや仮装大会仮装行列でのコスチュームとして提唱されていたのだと思います。 2014_11/28 21:23)


 ●1969年のアポロ月面着陸を中心とした各国の宇宙開発競争で、その前後の期間、児童誌各誌にも宇宙関係の特集が多く組まれている。
  その為、宇宙服を着て宇宙に行く事を夢見る少年少女も激増し、その60年代SF的リアル指向が後のヤマト、ガンダムブーム→コスプレブームを支えた部分はあると考えられる。
  (今の子供たちは子供用図鑑や雑誌の特集よりは「ガンダム」自体で宇宙服の存在を知る子も多いので、昔とは真逆となっている。)



 ●69年の初代リカちゃんトリオ用ドレスにグループサウンズ(GS)のコスプレドレスが登場した。(タイガース・カーナビーツ・スパイダース・テンプターズ・ヴィレッジシンガーなど)リカいづみ用の女の子服と、わたる用の男の子服。人形という形ではあるが、女子のいないバンドにおいてはこの時点で服の「男性→女性へのアレンジ」が成立している。
  後に、ピンキーハットルックシリーズが展開される。これは当然ピンキーとキラーズの今陽子的なコスチュームをリカちゃんに着せたもの。GSのドレスは子供がなりきるにも作りづらいものだったので人形はヒットした。ピンキーハットを欲しがる子供は実際多かったと思われる(子供向けは少ないだろうけどね)。この辺から学生による芸能人ルックが活性化してくる。
  (追: カタログ画像→。左からスパイダース、カーナビーツ、テンプターズ、ヴィレッジシンガース、モンキーズ。沢田研二達で人気絶頂だったタイガースはカタログでも最初の方に紹介されていた。画像
  このカタログは浴玩「ちっちゃなおもちゃやさん」付属のミニサイズレプリカなので、グループ名が抜けてます。
   年代訂正。「beans+」誌では69年枠で紹介されてます。その頃のアイテムのようです。2009_6/28)


 ◎ 60年代後半から70年代前半にかけてハーフモデルとハーフタレントのブームが起きました。(1)
  写真は1969年当時の少女フレンド(漫画「リカちゃんトリオ」の最終話が載っている号)。モデルは高見エミリーさん(鳩山エミリーさん。鳩山邦夫元総務大臣夫人)。
  少女フレンドはこの頃各衣料ブランドの少女向けファッションを読者プレゼントにするなどしていました。そのプレゼント服などのモデルを彼女がやっていて、いわゆる少女ファッションのリーダー的存在でした。
  60年代〜70年代は、戦後はまだ根強かったハーフへの差別や偏見が、少女向け雑誌などからなくなり始め、自由恋愛や国際恋愛国際結婚への憧れが生まれてきた時期でもあります。
  タカラの着せ替え人形シリーズのリカちゃんがハーフという設定は、彼女から来ているとされてるみたいです。ちなみに試作当時のリカちゃんを、リカちゃんの開発者である故・小島康宏氏が女の子たちにリカちゃんを見せた所「かわいい!死んじゃう!!」(ものすごくかわいいの意)と口々に言ったそうです。(しかし当時の大人層である問屋の人々にはやせすぎで病的だと言われたそうで、タカラの佐藤安太社長とそろって憤慨したらしい 「リカちゃん、生まれます」等
  高見エミリーさんは、仮面ライダーのライダーガールズとしても活躍しました。それまでの日本の少女のかわいさは「はかなげなかわいさ」だったわけですが、それが活発で元気なかわいさにつながっていった時期でもあります。 (2015_2/20 14:08)
  ※ 同時期のハーフタレントであるハニーレーヌさん(68年ごろから活躍)については、キューティーハニームーブメントに近いので、↓ の70年代研究を参照。 

  (※ 追記 : ていうか、リカとわたる(といづみ)から、「うる星やつら」のラムとあたる(としのぶ)を連想するのは僕だけ?
   初代や2代目リカちゃんの顔って、ラムに似てると思うよ、うん。)






※ この辺が1970年になります (^▽^);




◎  万国博覧会とヒッピー、パレード文化と、魚眼レンズの進化とニーズ
  ● ヒッピー文化と日本への影響 について。
    当時はアメリカでも正義無きベトナム戦争反対のためのヒッピー文化が盛んで、彼らが集合集落や共同体を作ったりデモやイベントやパレードを行っていました、   彼らは狭窄した伝統を批判し、戦争や軍事を批判し、自然と愛と平和とセックスと自由を愛することを提唱していて、例えば今でいう服飾のグランジファッションやピースマークや、フラワームーブメントなどもその辺から来ています。ちなみにドラッグ文化でも自然ドラッグ(マリファナ)が流行ったりしています。(合成麻薬は基本彼らは使いません)
  自分は麻薬批判派なのでその辺は苦手だし、フリーセックスというほど性的に自由主義では無いですが、基本理念自体にはものすごく共感します。
  アップルコンピュータのスティーブジョブスもヒッピー精神の継承者で、パーソナルコンピュータやiシリーズなどの概念もヒッピー精神ゆえ、ヒッピー精神の為のものだと考えられています。(この辺は結構有名 )
  日本でもデモやパレードが多く行われています。目的はヒッピー的なものや学生運動的なものなど様々ですが、学生運動的なものはファッション的なものとは縁遠いものでした。

  ● 万国博覧会とパレード。
  この頃 EXPO'70・日本万国博覧会が開催されます。日本で始めて開催された万博は、大阪開催。岡本太郎氏のデザインした太陽の塔で有名です。(最近中に生命の樹というオブジェがある事も再評価されていますが、生命の樹の美術監督は僕が2年間絵を習った、ウルトラマンセブンのヒーロー怪獣隊員メカデザイナーの成田亨氏です)
  この万国博覧会は人類の進歩と調和をテーマにして(岡本太郎氏も成田先生も進歩という概念に懐疑的だった方ではありますがだから成功したのだと思います・・・)、連日数多くのイベントが開催され、世界各国や日本と各国の企業パビリオンが展示館を持っているイベントでした。(僕も2度ほど行って、当時の公式ガイドや図録のようなものがウチにまだあります)
  そしてそこで展示物同様来場客の目を引いていたのが、万博や各パビリオンのコンパニオンの方々のコスチュームです。世界各国から来ているだけあってこのコスチュームは色とりどりに様々で、各国の伝統衣装をモチーフにしたものも数多くありました。更に日本だけでなく各国の有名デザイナーがその衣装をデザインしていたため、非常にレベルもクオリティーも高かったといえます。
  更にコスチュームそのものにも各国のメッセージが詰まっていたと言えると思います。
  その百花繚乱とも言えるイメージが後のアニメーションや漫画作品のコスチュームデザインに多大な影響を与えています。


  そして万博協賛を記念して、銀座ではパレードが開催されていました。(右は70年のアサヒカメラより→)
  いわゆる企業チーム式の仮装パレードですが、この下のアサヒ評者のコメントに「これでは主体のストリッパーがぶれるのは当然で(ピントを彼女らに合わせるべき)」とあります。
  当時パレードの上に乗る人をストリッパーと言っていたのかとも思いましたが、選評者のコメントを字面どおりに受け取るなら、あえてストリッパーの人々にパレードカーの上に載ってもらっていたのかもしれません。
  化粧品会社のパレードのようなので、人種差別など人の肌の色による差別を越えようというメッセージだったのかもしれません。だとすればとても普遍的なパレードだったんだなと思います。
  (自分は幼児期から東京では銀座大好きっ子だったので、ものすごくこの写真には懐かしさを感じます。)

◎ 各種パレード と 撮影技法。
  日本でもヒッピー文化や学生運動的なもの、各種デモやパレードが行われました。70年前後はその最盛期とも言えます。
  パレードやデモの意味合いなどは、いわば理念や精神、主義の表現であって、何かをアピールしていると言えるでしょう。(appear)というのはつまり「表現」で、相手の前に自らの内面をあらわす事でもあります。
  その頃から魚眼レンズを使用した写真、またそれを撮影可能な写真機が多数開発されます。、右は70年のアサヒペンタックスの広告。6x7機の180度魚眼レンズです。
  つまり、35mmやズームレンズなどのカメラでは左右の群集を撮影するのに限りがあるわけで、その人々の多さやパレードの雰囲気、日本各地で催されている祭りや海水浴場など、その広さや人々の量を表すなら魚眼レンズが最適なわけで、このタイプのカメラはパレードやデモの表現に最適だったわけです。そして大量にこのカメラが売れました。アマチュアカメラマン向けの機体なのでこのカメラを使って広告のように群集撮影をした人々も多いでしょう。
  それぞれのテーマを意識して撮影対象を撮るためだという文章は、この広告にも書かれています。(広告画像)
  海、山だけでなく、パレードやイベントの人々の姿や、に集まる多種多様な主張の人々を撮影して表現できるよ、という意味で、このカメラの開発と広告の発想は、極めて後年のジョブス的だと思います。
  (※ つまり、若い子でも何とか理解できると思いますが、これは6X7の大判ロールフィルムを使ったプレスカメラとしても使えるカメラです。プレスカメラというのは新聞社のカメラマン用に頑強に作られているカメラですが、必ずしも新聞目的じゃなく、若者が記録を残すためにも使えるよ、という。)
  (※※ コミケでは魚眼レンズがフィルムカメラ当時から没収対象になっていますが、基本的に魚眼レンズを持ってきていたカメラマン(プロアマ問わず)は、
   この写真のようにその場の群集写真を撮りたいのであって、魚眼レンズを使って盗撮をしたいわけではありません。
  で。コミケの同人ブースにしろコスプレ広場にしろ、そこにいる人々が思想や想いのアピール(表現)をしているのなら、それをそのまま撮るのが本来のカメラマンで、それがカメラマンの表現です。これはプロアマ問わずですが・・・
  つまりコミケコスプレ広場に(主に80年代)、魚眼レンズを持ってきていた人々は、コミケの露出コスプレを撮りに来ていたのではなく、コミケに来ているコスプレを表現者だと当然認めて、お祭りとしてお祭りを撮るように魚眼レンズを持ってきていたわけです。そう考えるのが自然です。
  コスプレは着ている姿が表現です。しかし魚眼レンズ自体が盗撮目的になると言われて禁止されていますが・・・この広告を見ての通り、その左右は画像が当然圧縮されます。
  90年代までコミケで無断撮影は規制されていません。表現している以上撮られても仕方ないという正常な認識があったからです。なので魚眼レンズをわざわざ使わなければならない理由は90年代前半までありませんでした。人に聞きましたが、魚眼レンズを使わなくても、粘着じゃなければ普通に撮って構わなかったからのようです。
  頼めば撮らせてくれるかもしれないコスプレイヤーの露出ポーズを撮るためだけに魚眼レンズを使っているのだ、というコミケ準備会コスプレ広場スタッフの主張は、元々からして虚偽です。
  しかし、それを無数のコスプレイヤーがコミケカタログや元総統括などのデマに洗脳されて信じ込んでいます。デマを信じ込むのは、それはそれで、「悪」です。
  そしてコミケでは魚眼レンズの持込が確認されれば、即スタッフによりカメラフィルムもろともに没収され、没収物の返却はされませんでした。カタログに書かれている通りです。そのルールを告知しているコミケカタログも、参加者延べ人数に大幅に足りません(現在でも延べ55万人に対し11万5千部)。地方参加者がカタログを買えずにレンズ持ってやってきていればレンズ持ち込み者は即没収です。その被害にあった被害者カメラマンがどれだけ多かっただろうか、想像に余りあります。(しかも金属カメラバッグもです。総額いくらでしょうか?)
  コミケがなぜそのようなルールになったかと言えば、一つは原作のあるアニメ漫画ゲームの粗悪なエロ同人誌で金を稼いでいるのが著作権違反に該当する海賊版犯罪行為で、悪質なエロ同人誌の描き手を撮影から不当に守りたいからですが、(これはコミケの死んだ代表らがコミケ以前佐世保の反原潜デモで火炎瓶を投げていたような武闘派だったからでもあります。だから撮影の拒否対応が「京都府学連事件」的なのです)
  とどのつまりは魚眼レンズもそれに付随するカメラも高額だからです。高額な品物を有無を言わさず奪い取るのは一般社会では強盗罪です。それは無断撮影をはるかに越える悪です。(2014_12/12 7:50)



 ● 僕は性的盗撮などは昔からやらない主義で(各イベントの悪質スタッフにデマ吐きが大勢いますが)、実際その手の撮影はしてもいなかったんだけど・・・一応知識として5〜70年代当時のローアングル撮影について。撮影技法の続きです。
  ローアングル撮影やアオリ撮影というのは昔からある言葉で、つまり被写体を下から撮る撮影技法です。技法なわけなのでローアングル撮影は犯罪でも何でもないです。(ちなみにアニメ界では80年代のスタジオビーボォーの湖川氏のあおり作画などが有名)
  写真は1971年のアサヒフレックスTLS401のフィルムカメラ広告。「拒否されるアングルはもはやない。超ローアングル・メカ」のコピーが鮮烈です。このカメラは通常の一眼レフファインダーの他に、クリエイティブファインダーをカメラ上の軍艦部に持っていて、スイッチ一つで上からの覗き込み撮影が可能になり、特殊な角度での撮影に対応できるカメラでした。しかもこのような切り替えファインダーはそれまでペンタプリズム使用で左右逆転像になってしまうんですが、このカメラは上から見ても左右通常に見えるという画期的なものでした。(広告詳細)
 最近で言うカメコのイメージが既に確立されているのがスゴイ(元々カメラ小僧といいますが、この頃多分まだカメラ小僧という言葉は無いです)。
  ただ、こういうウエストレベルのローアングル撮影というのが、当時特殊だったかというとそんな事は無いです。
  理由は・・・実はこのアサヒフレックスというカメラのシリーズもそうなんですが、昔は35mmの一眼レフはまだまだ高額で、普通の家庭の人はファインダーが斜め上についているレンジ(距離計)ファインダーカメラ、その前は2眼レフカメラ(ロールフィルムが横幅6cmあったりします)を使っていました。正面から見るとレンズが2個あって、上からのぞくタイプのカメラです。画像検索:2眼レフ
  35mmフィルムのレンジファインダーカメラ、特にライカタイプのものは昔は非常に高価だったけど(ウチの父は初任給3ヶ月分くらいのキャノンのライカタイプカメラを買って旅行時に盗まれた体験があり今でもそれがショックみたいです)・・・でも祖父が持ってたような2眼レフはそれよりは安かったし、フィルム自体が大きいので画質も良く、元々日本のカメラマンにはウエストレベル撮影の人が多かったわけです。
  アサヒフレックスは元々→の形状になる前は2眼レフのシリーズだった。それで「上から覗くウエストレベル(腰高)で写真を撮る方が楽な先輩カメラマン達」に合わせて、TLSのようなカメラが作られました。
  ていうか、この写真のカメラマンの名誉のために追記するなら、この女性はちゃんと座っているのでスカートは撮れず、多分逆光撮影を狙ってるんですね。
  根本的にこういう写真を撮らす女性ってのは、基本的に友人や恋人や家族や奥さんなど親密な間柄かモデルさんのどっちかだと思うし、極論当時は「Oh!モーレツ」などブームだったので、男性経験ある女の子は結構堂々と撮られ撮らせる子が多かったんだろうと思います
  (言ってみれば今の女の子は男性経験あっても精神的に大人になれない子が多いわけだけど)、だからこういう広告コピーもあまり問題なかったみたいです。まぁ若者が「男子女子問わず幼児化してる」とは・・・いつの時代も言われるよね。僕も言われる。
  まぁ、こういうアングルで女性を撮るにはまず近づいていなくちゃ(近づける関係じゃなきゃ)撮れないので。
  あと、このカメラはけして下からのアングルで人を撮るためだけのものじゃなく、例えば当時新宿などに超高層ビルが建ち始めて観光名所化した時期だったんだけど、超高層ビルを下から撮るには普通のファインダーの位置だと首が痛くなるので、こういうカメラか2眼レフの方がはるかに楽。だから時節柄このカメラに人気があったわけです。
  今はチルトファインダーという角度変更可能な外付け機材が出てきているので、カメラ内蔵でそういうシステムを作る人はいませんが・・・・・つまり、ウエストレベルのローアングル撮影者自体は、5〜60年代の2眼レフ当時から必要上かなり多かった。コスプレがまだほとんどいない頃から。

  ただ、確かに女性のセクシーさを強調するのに下からのローアングル撮影は有効で、例えばアメリカのセクシー映画監督のラスメイヤーのカメラワークはそうでした。あと、性的盗撮は特に80年代に増えてきます。それはまた別項で。     (ていうかコミケ終わるたんびに携帯盗撮現場画像がUPされるのは、もはや風物詩としか。なんだかなー  2015_1/1 4:35) 



 ● アニメ・コミックなどでの、人間型でなおかつ肌の色が特殊なキャラクター群と、美術や映画、ボディペインティング、蛍光ファッションなどの当時ムーブメントについて。再編集中
  手塚アニメの海のトリトンのキャラクター達や、デビルマン、キューティーハニー、そして宇宙戦艦ヤマトなど、普通の地球人ではありえない肌の色を用いる事で、宇宙人や妖精、悪魔などを表現したキャラクターが70年代を過ぎてしばらく経った頃から登場し始めます。彼らは白黒テレビ時代のアニメではなかなかありえなかった事で、カラーテレビとカラーアニメの普及で徐々に登場し始めるわけですが、肌色を変える事で異世界の存在を表現するというのはかなり昔からです。
  例えば古くはインド神話のシヴァ神で、彼の肌は絵では青く塗られています。海外の神像や仏像、ツタンカーメンのマスクなども金箔を貼られています。ギリシャローマの彫像でも白い大理石が多く用いられるのはその清浄さを表現するためで、日本における青鬼や赤鬼、海外の悪魔も赤い肌だったりします。真っ白い化粧のピエロなどもちょっと非現実的です。
  各種お祭りやカーニバルなどでは身体にそれらの染料や金粉銀粉などを塗る事で、人間ならざるものを表現したりする事が昔から多くありました。また舞台上での金粉ショーなどはかなり昔からあったようです。
  例えば金粉ショー的キャラクターが出てきて一躍有名になったのは映画「007ゴールドフィンガー」(1965年)です。wikiには「粉を体中に塗り、皮膚呼吸が出来なくて死ぬということはない。」と書かれていますが、登場人物で、敵役のゴールドフィンガーを裏切ったジルという女性が全身に金粉を塗られて皮膚呼吸が出来なくて死ぬシーンがあり、それで日本人の大多数にそういう認識が広がりました。ただ先日ゴールデンズ(大駱駝艦)メンバーの方に聞いた所、かなり苦しいのは事実のようです。(金粉僕は塗った事ないので解らないですが)
  その後70年代の大竹省二氏(※巨匠)が各種ボディペインティングの実験写真などで、金粉女性の写真を撮影、アサヒカメラに掲載もされていますが、その巻末に載っている写真の英文解説でも、女性を金色でいさせる上での制限時間を設けていた事について触れられています。
(※ 6/17 後注: 1971年の大竹省二「ヌード・イン・カラー」(アサヒカメラ記事)より。

   近年のゴールデンズの女性のボディペインティング(顔を塗り残したり)とほぼ同じ様式です(こちらはヌードなので下着は無いですが)。女性を使って、インドやヒンドゥー系神話の踊る女神様というか、菩薩というか仏像的な表現をしていて、更に手には林檎を持っているので神話的表現でもあります。いわゆる麻田奈美さんの林檎ヌード(◎)が1973年なので、麻田さんより約2年前です。モデルさんについては詳細記載されてません。ダンサーなのかどうかなど不明です。
  2枚目がアサヒカメラの当時の巻末の英文キャプションで、各号の写真ページについて、撮影者紹介と海外読者に向けた簡易解説になっています。英文で「食用油と混ぜた金粉で全身コート」「彼女は長期間この状態でいる事ができないので、撮影は短時間に行われなければならない」と書かれてます。この号の大竹氏の写真については結構大事なので追加解説します。
  この美術写真については修正入れるとかえって変になる事が解ったのでそのままにしてます。美術写真にぼかし入れるとか、作品への冒涜だって・・・;昨今のネット連中ってやだねー  2015_6/17 11:07)
  

  全身ブルーの人物ビジュアルについては、古くはシヴァ神や青鬼などがイメージだと思われますが、世界的にはピカソの「青の時代」の絵画群があります。それらは肌を青系統でセピア写真のように塗った作品群で、日本でも人気があります。
  そして、この日本では 焔 仁 (ほむらじん)氏が、青い人物画の画家として圧倒的に有名です。(下画像。絵画なので特に修正なしですがサムネイルサイズ。一応80年代の画集も持ってるんですがダメージ多なので、今回は神戸展の画集から写真引用。60年代後半から90年代にかけて))
  焔氏は1967年にパリに留学し、画集によると60年代から青い人物像を多数描き、今でも青の人物画の画家です。彼の青の人物画はピカソなどとはまた異なり、まるで青い鉱石、青い生命のように人の肌が青いリアルさで描かれていて美しいです。(彼はパリ留学していたという事ですが・・・パリの民衆の噂の「貴族の血は青い」とか、そういうのなのかどうかは謎ですね・・・絵画は謎だから魅力的!!というのは本当!)
  髪の毛が金髪で肌が青い、という絵も焔氏は60年代から描いていて、そのカラーリングはヤマトのデスラー総統などに非常に近いものがあります。焔氏の青い人物画は、日本の異世界的肌を持つアニメキャライメージから見ても最先端だったのだと思います。
  「日本のクールジャパン」というのはよく聞かれる言葉ですが、焔氏の青い人物像は極めてその原点イメージに近いです。熱さを感じさせつつ、クールであるという・・・




  (僕が焔氏の画集を最初に見たのは80年代に中学の頃通ってた大阪のくずはモール街のエスカレーター下の画集コーナーです。多分「少女アリス」などを始めてみたのもそこだったかも?なんか好奇心旺盛な少年期とか、思い出します ^^:  ※しかし、単純な性的好奇心だけだったらこんなに長く色々考え込んだりしないし買わなかった本を長期記憶もしないだろうと思う。僕は「性的好奇心」で写真や美術を見ないので。)
  ・・・焔仁氏は岐阜県の白川郷に個人美術館の「焔仁美術館」と庵をかまえて、今でも画家として活動を続けていらっしゃるようです。阪神大震災以後では青い僧侶の絵画など、日本的画題や仏教画題にも殊に取り組んでいらっしゃいます。
  (※ 焔氏は最近は白地に墨でコミックアート的印象もある墨絵を描かれてます。逆に凄い新境地感です。和紙に面相筆?で3週間近くかけての一発描きの墨絵、パリに住んでいた藤田嗣治氏の絵にも通じている?)


  これらも大竹省二「ヌードインカラー」(1971年)より。一応バストトップ等は隠してます。
  スポットライト技法の使われている写真ですが、各種カラースポットライト+ストロボ・・・という技法で、当時のフィルム撮影で各スポットライトの色味を残しながらストロボで顔を浮かび上がらせるのは極めて(ホントに)高度な技法だと思います。(右モデルのバストトップ、消してるけど本来は蛍光状態)
  例えば有名なショーンコネリー時代の007映画のOPでも狙撃銃のスコープから見た映像がスポットライトのように展開する、などといった映像はあるんですが、こちらは純然たるスポットライトで、それをこのように使って女性を撮った例は過去あまりないです。この後各アニメなどでカラースポットライト+女性キャラ、のような描き方が増えているんだと思います。(「ルパン三世」「キューティーハニー」など)
  多分次の青いヌード写真の方が、上の段との繋がりは近いと思いますが、全身ペインティングとライティング色調などで青いヌードを作り出していて、とてもキレイです(焔仁氏の絵画があったからという可能性はあります)。重要なのは、蛍光塗料で彼女らが化粧をしている事で、リップもネイルもですが、首飾り部分も実は蛍光塗料で身体に直接描かれています。いわば「蛍光による(ボディ)メイクが女性のファッションになっている」わけで。
  相当後の時代のコスプレダンパで「蛍光生地、メイク」などが意図的に使われだしたのは90年代で(どのコスプレダンパかは不明。コスパ以前からコスプレダンパには私服で行ってたけどちょっと明確で無い)、色んなパーツが光る彼らのコスプレも結構キレイでしたが、そういう蛍光ファッションの原点もこの頃です。
  (※後注: で、例えば髪の毛に羽毛をたっぷり付けた帽子をかぶっているこの青い女性の写真が、後のアニメ版デビルマン(72年7月〜)のシレーヌのイメージにつながっていくのだと考えるのが、おそらく正しいわけです。 6/18 7:25)
    (※※ ディズニーアニメの魔女にも青白い肌のキャラはいるけれど、単純に「血の気がない」表現で、異次元人や宇宙人キャラはいない。一番近いのはアラジンの魔法のランプの精だったりするんだが、そもそもランプの精は煙で実体がないのでボディペインティングもへちまもない。青い煙から来た表現だと思う 6/27 7:02)
  この他、緑と水色の毛糸を使ったカツラをかぶった白人(ハーフ?)女性のヌードもこの号で大竹氏は発表していて、いわば人間(女性)の身体を使ったカラー時代の表現演出方法のバリエーションを、この号の特集で提示していたと言えます。この号以降、カラー写真による女性の身体の表現は劇的に変わっていきます。その流れの中にアニメ・コミックも含まれています。
  ボディペインティングというのは結構土俗的民族的な風習に近い、ファッションだったり自己演出なのですが、大事なのは(人形の塗装と同じで)、身体を色で塗りたくることで、逆に・・・人間の普段の種族性とは関係ない、人種差別を超えた身体性、人体の意味、みたいなものを表現するのに非常に適している、という事だと思います。
  で、現代では、そのフィードバックを受けてきたアニメコミックゲーム・・・に登場する女性キャラを、更にコスプレイヤーがコスプレして、70年代当時先端的な人々が使っていた演出技法を導入したり、その状態を写真に撮ったりしているんだよね。
  つまり循環して「モデル」「画家」「写真家」「アニメ・コミック」「レイヤー」どちらも文化として成立しているわけです。どれも単一でここまで来た文化じゃ無いってことです。
  (そういう文脈を途中で断ち切って認識しろ、っていうのは、僕的には不可能です。クールジャパンと言われ始めてから2次元オタクが、写真系とか美術系やモデルさん達を軽視しているのは駄目じゃん!!と僕は思う。)

  大竹氏は極めて多様な技法で、当時廉価になってきたカラーフィルムを使ったヌードを撮影していますが、上(↑ 金粉写真の所)に書かれている文章がとても大事なことを書いているので、ちょっと訳すると、大竹氏が女性を撮る上で一番重要だと思っているのは、
  「女性の特徴と目立つ長所をまず発見する事、撮影上のアプローチや技術方法論はその後に開発すべきだ」って事で、つまり「それぞれの女の人の、魅力的な所を見つけた上で、色んな手法を適用させて写真を撮る」って事で(僕もこういうの結構好きだけど撮る機会ながなかなないのでイラストや素描で試してますが)、それはコスプレイヤーにも色んな意味で参考になる言葉なんじゃないかなと思います。
   (2015_6/13  21:43 〜 2015_6/17 11:53  サイケ系の蛍光ファッションについてはもう少し後でまた書きます。ちなみに初代リカちゃんの服も、ブラックライトで光るのは多いよー^^)
  (※ デビルマンの青系や緑系の肌の前に吸血鬼映画もあるじゃんと思うかもしれないですが、あの前後の映画の吸血鬼は大体白塗り系で、青系じゃ無いです。手塚漫画のカラー表紙に類例あるかもしれないくらい? 怪物くんのドラキュラですら肌色してますから・・・  /17 15:08)
  (※※ スターウォーズのEp1~3グッズのページの方にアイラ・セキュラのフィギュアを更新。青い肌のキャラの系譜は今でもつながってるよね。アバターとか)
  


 ●個人的には関西に住んでた3歳頃、近くのバイク屋(兼自転車屋)のおじいさんが、自転車の部品を使って子供向けの変身忍者嵐(72年〜)のコスチューム(剛性ありすぎ)を作っていて、僕より年上の子供たちが着て遊びまくっていたのだが、僕は小さかったのでそれらは重くて着る事ができず、自分の分を作ってほしいとお願いする前に引越しになってしまった。
  ちなみにそのおじいさんは自転車のバネを使って、巨人の星(アニメは68年〜)の「大リーグボール養成ギプス」も作っていたはず。怖くて付けれなかった。有用とは思えないので、ある意味コスプレ以外のなんでもない。
  自分も幼稚園頃にお菓子の箱を改造して、風雲ライオン丸の弾獅子丸用のロケット変身ランドセルを作って遊んだ記憶がある。
  ビデオも無かったのでランドセル内部を作っては変え作っては変えで放送の度に3回くらい作り直した。コスプレとは違うか。さすがに花火は怖いので仕込まなかった。




 ● コスプレによく使われるカラーウィッグ(カツラ)について。
  元々カラーウィッグはルイ王朝の舞踏会などで色とりどりのかつらを付ける事がブーム化していた経緯があるようですが、ここはコスプレと写真系に関係ありそうな話。
  アニメや特撮などのキャラクターでカツラを付ける事でキャラクター性を表現した初期のものとしては、1967年のウルトラセブン第9話、「アンドロイド0指令」に登場した金髪アンドロイド美少女などがいます。金髪なんですがいかにも人形っぽい、直毛ワンレングスのプラチナブロンドで、アンドロイド性を強調していました。(演:小林夕岐子さん。すごく好きなキャラクターです)
  (※ 海外的には1960年の「未知空間の恐怖 光る眼」(原作:ジョン・ウィンダム『呪われた村』)というアメリカSF映画で、プラチナブロンドか白髪のかつらをかぶった少年少女たちの超能力者というキャラクターが出てきます。 ※2013_1/14)
  その内、ありえない髪の色を使って、SFなどのキャラクター性を表現したキャラクターが生まれて行きます。ITC作品「謎の円盤UFO」(1970年9月からイギリス放映)のゲイ・エリス中尉のパープルヘアーが、カラーウィッグで表現されたのが有名です。エリス中尉は昔からSFファンの間で人気が高いです。
  日本国内では、1971年にモデル兼歌手の杉本エマさんをモデル起用した、中村正也氏による「エマ・ヌード・イン・アフリカ」(右画像)というアフリカでのヌード写真で、緑のカラーウィッグを使用した写真がアサヒカメラの1971年10月号に掲載され、鮮烈な印象でした(同年9月に個展あり)。(「赤毛のアン」では一番髪の毛に嫌な色と書かれてますが、その固定観念を飛び越えています)・・・綺麗な写真です。(※ただし同名の写真集版はモノクロオンリーの写真集で、この緑ウィッグ系列の写真は掲載されていません)
  杉本エマさんはすごく魅力的で(杉本彩嬢の芸名って最初は彼女から来たのだろうか?)、この写真については、なんかラムちゃん的なイメージもあると思います。(※そういえば杉本彩作品には「フィギュアなあなた」ってDVD作品(2006年)もあるけど、あのフィギュア造型的ウィッグは色んな意味でとんでもだったと思う・・・w;
  同アサヒカメラ1971年10月号には読者写真(村岡某氏撮影)で白いモヘア系のウィッグ?を使った魅力的写真も掲載されています(画像。 色合いが何だかほむら氏の絵画っぽいね)。この頃から、プロ・アマチュアを問わず、各写真家がモデルにカラーウィッグを使う事で、創作写真のイメージ幅を広げていきます。
  つまり、カラーウィッグについては、
  SFなどのテレビドラマでの使用 → 謎の円盤UFO → プロ・アマチュアカメラマンがモデルに着せて創作使用 → アニメキャラにフィードバックする事による髪の色の多様化 → 最後にコスプレイヤーがカツラ着装 の順に日本では波及していきました。
  コスプレイヤーがカラーウィッグを使うのが目立つようになったのは、80年代半ばを過ぎてからです。
  (色の薄いカツラを染色したり、毛糸などで自作したりはいたけれど・・・ラムちゃんでも黒髪の地毛でやってる子が多かったです。)
  ・・・1974年には、特撮ロボット番組「マッハバロン」で首領ララーシュタインも登場、カラフルな爆発頭と金色カラコンがインパクト凄かったです。あっくっのっ天才が〜〜〜♪♪ (※ララーシュタインの髪の色変化は白色ウィッグにカラフルな光を当てる事で変更している。こういう髪色変化も特撮っていうのか?(笑) 2012_11/30)




 NEW ● しかし、各種仮装パレードと、ちんどん屋さんや演劇人(アングラ系含む)の増加は、数多くの金属模造刀や刃を抜いた美術刀剣所持者を増やす事になっていきます。
  剣道や居合いの練習の為でなく、ファッションのために金属の模造刀模擬刀を持ち歩く人々の増加は、治安を守る警察の側としては由々しき事態でした。別の理由として、おそらく1970年の三島事件を模されたり、学生運動に使用されるとやっかいだという考えもあったのだと思います。


● この当時(厳密な時期はちょっと不明だが、銃刀法附則から考えれば、昭和46年から52年の間頃)、銃刀法22条4(当初は銃刀法22条3だったらしい)が施行され、全国のちんどん屋さんのお侍の扮装をしている人々が、金属製模造刀剣を携帯する事を禁止されたり没収されて困るという事態が起こっていたらしい(子供の頃ニュースで見た記憶がある)。殆どのちんどん屋さんは、この頃から剣を竹光にしていく事になったようである。(それまでは金属模造刀と竹光などが混在)
  つまり、侍の扮装(コスプレ)の人が、脇差しなどで見せる状態の刀ならば(今でいうコスプレの人の場合は)、金属製模造刀(や刃を入れていない日本刀)を使うのは正当な使用法ではない、とする概念がこの頃には存在していたという事になる。時間がその記憶を薄めてしまっているのかもしれない。
  (※ 昭和40年代当時は、台所の流し台などの材質にアルミを使いはじめてまだ間もない時期だった。アルミを使った品物は当時高価で、従ってアルミなどの軽合金製の模造刀というもの自体が、まだあまり出回っておらず、模造刀も硬く重いものが多かったと考えられる。
   ちなみに鉄の比重7.86に対し、亜鉛の比重は7.14で殆ど変わらない。アルミニウムの比重は2.7なので振る事による破壊力は低い。しかし金属模造刀禁止という法律(銃刀法)は変わりません)
  ちなみにちんどん屋さんは僕が子供の頃にはまだ結構いて、大阪では80年代になってもまだ活躍していたのを見たことがある。今でも頑張っているちんどん屋さんは結構いるらしい。現在、申請などによって金属模造刀の携帯が正当化されうるようになったかは不明。(2009_10/17)


◎ 主に70年代前半のカメラ・フィルム会社の女性ヌード広告について。当時のカメラ誌より。
  最近リベンジポルノ問題で、レイヤーにも勘違いしている人が多いので一応。
  日本でのヌード写真は、戦前から撮影者もモデルもいた。セミヌードが広告として使われて有名になったのは「マッサン」でも再び脚光の当たった大正時代の「赤玉ポートワイン」のヌードポスターですが、実は戦前から日本のヌード写真のレベルはかなり高いものでした。
  この頃、各カメラ会社が広告で女性のヌードをカメラやフィルムなどの広告にしています。一つはカメラマンとモデルの地位が向上したのと、自由主義が民間に浸透したからですが、もう一つは、フィルムとプリントの精度が上がった事が理由です。この頃の写真誌のヌード写真は、日本人、外国人、白人黒人ハーフを問わず、様々な血筋の人々がモデルになっていたので、そもそも反差別的な色合いが濃かった。現代のヌード系芸術写真は基本的に反差別と自由主義と人権主義を経過しています。そういう視点を無視したヌードはおいそれと芸術とは言えないわけですが・・・それはまた後で。
  順不同で各広告を紹介。
  「リコーエルニカ35」・・・レンジファインダー型コンパクトカメラ。旅行カバンの中から女性が現れるというもの。影ではあるけどバストトップ見えます。結構雰囲気ある写真で僕は好きです。
  「アサヒ・ペンタックス」 ・・・旭光学工業製の6x7カメラの広告2枚。毎月モデルを変えて広告していました。ここは研究ページなので、芸術写真に対して不本意だけどバストトップ消し。
  「同・ES2とSPF」 ・・・6X7cmではなく、35mmフィルム用高級一眼レフとしてのペンタックス。カラーライティングで浮かび上がらせたヌード。肖像権問題無いのでバストトップは消しません。
  「フジカST801」 ・・・フジフィルム製作のレンズ交換型ミラーシャッター35mm一眼レフカメラ。フジカはこの当時6X6でも6X9でも撮れるようなカメラも作っていたんだけど(フジカ690など。某フリマで散々買え買えとカメラブースのおじさんに言われてるんですが;)、この頃35mm一眼レフが進化浸透してくる。
  「ナショナルのストロボの広告」 ・・・オートパナなど、当時の各カメラの外付けフラッシュの広告。ナショナル=現パナソニックで、LUMIXを作っている所。当時はストロボを作っていた。これは大石芳野氏の連作で、モデルの少女と女性を変えて続いた少女ヌード広告です。カメラ誌のモノクロページに掲載。キレイな写真なんだけど、一応顔と胸は消した。
  「東洋現像所」 ・・・つまり現在のIMAGICAの現像技術のアピール広告です。多分オプチカル処理された画像をプリントしている。今と違ってCGを使ったデジタル合成技術などは無いので、光学的に処理するしかない。当時の東洋現像所はイーストマン・コダックフィルムと提携。
  「タムロンズーム」 ・・・各カメラに使用可能なアダプトールマウントを持つズームレンズの広告。(75年のカメラ誌より)
  「フジクロームRD」 ・・・フジフィルムのリバーサル(ポジ)フィルムの広告。これのみ80年。
  この他、エレクトロ35などで有名なヤシカのカメラも、ノーパンに近かったりセミヌードに近かったりするパンフレットを出してました。
  (カメラ雑誌の広告として見つからないけど、沢渡氏の「少女アリス」のヒロイン・サマンサ嬢のヌードは、Canonの一眼レフ機「F-1」の販促パズルにも使われてました。)

  ・・・つまり、日本では昭和当時から、アマチュアでもプロでもカメラマンはヌード写真を撮るのは当然だった。当然というか自由に撮って構わない国だったって事です。日本はそういう国です。

  むしろ、カメラマンは、美しいものや自分でキレイだと思うものを撮りたいと思って撮影しているわけなので、親しい女性のヌードが美しいと思えば、女性のヌードを撮るのがカメラマンです。
  というか・・・カメラマンでなくても、カメラを持っている大人が美しいと思うものを撮るのは普通の事だ、という考え方で。
  ・・・だからこそ、カメラ会社、フィルム会社、現像会社まで、ヌード写真をカメラ雑誌などで大々的に広告使用したわけです。 今でいう通常のフィルムカメラ(35mmカメラ)の広告にヌードを使うのは、つまりヌード写真は自由に誰でも撮っていいという事ですから。それがあたりまえだと、カメラ製造会社もフィルム会社も出版社も現像所も主張してきたし、無数の一般人もそう思って撮影してきた。その延長線上にあるのが現代です。
  (今の価値観と違うのは、ヘアヌードも当時はわいせつとされていたので、そういうものは自己現像するしかなかった事。フィルムの現像をお店に頼む時には大人のヘアや大人の局部は写っていないものしか無理でした。 ※子供は可。わいせつ性が無いから)
  この頃はアダルトビデオや裏ビデオのような本番行為を見せ付けるようなジャンルはまだ無く、せいぜい日活ロマンポルノ程度(当然本番はなし)でした。AVが無いので、女性がヌードモデルになるとしても純然と絵画芸術か写真かという2択で(殆ど)済んだわけです。(まぁブルーフィルムとかハードコア映画もあるにはあったらしいけど、本当に極少数)
  でも、本当は今でもヌードモデルとして上の地位なのは、絵画モデルか写真モデルです。AVとか性風俗ではないです。
  (※ ていうかAVも元々反差別的な要素あったんだが、差別反対人間皆平等とか言ってる連中がレイプものAVとか売ってるの見てるとかなりムカつく。矛盾もはなはだしいし下衆な冗談にしか見えない)
 
    要するに、リベンジポルノ問題ってのは結局インターネットが出来て深刻になった問題だし、児童ポルノ問題も90年代末のブルセラ写真や裏ビデオが問題になって起きた事で・・・・・・性的盗撮問題も、アクションカメラ術系の本が出来てから問題になってきたわけだし。つまりどれも撮影行為自体を指す問題ではなかったのに。・・・異性のヌード写真を撮る事自体を規制しようとした過去なんて、この国には第二次世界大戦中位しか無いんだよね。
  そういう意味で、リベンジポルノ怖さにヌード写真撮影を規制しかねない動きは、かなり戦時中じみているというか、自由主義と民主主義に対して危険極まるものなんじゃないかと感じます。・・・ってことでのこの更新でした。この国は親しい異性のヌード写真を撮って構わない国だ、って点を押さえとけばOK。(そこから先、気を付けたい人は各自で気を付けるべきだからです。根本的にベッドで撮らせないなど、法や条例で規制することではないし、それは親が教えるべき事です。大体ベッドでの写真撮影を許せないような相手とベッドを共にする事自体が変だと僕は思う)

  で、女性のヌード広告がなんで減ったのかというと、別にバッシングがあったとかそれが原因って事よりは・・・フジフィルムのゲルトちゃん関連広告が原因なんですが(笑;)・・・つづく!! (2015_2/22 2:07~2:43  2/25 画像追加)

  ※ 以下例示した企業広告は全部当時の、芸術ヌードもしくはアートヌードのカテゴリー。ポルノでは無いです。



 ◎ 1960〜70年代にかけて、理想の女性像というか、魅力的女性のイメージが変化してきます。
   それまでは女子や少女は大人の女性に憧れたり、ハイヒールをはいて、男の人の背丈に近づこうとしたり、結局の所いわゆる大人らしい女性が一番魅力があるという時代だったわけですが、
   この頃から、少女性を大人になってもそのまま持ち続けているかわいい女性やキュートな女性がどんどん市民権を持ち始めます。
   話の方向性が変わりますが、右は71年頃のア●●ヒカメラ掲載のヌード写真。稲村隆正氏撮影。 ツインテール・ヌードです。
   髪の毛がツーテールのおさげ(今はツインテールと言われてますが、当時はツーテールと言われてました)なのに、ヌード!!・・・タイトルも「キュート」とされてます。めちゃくちゃカワイイ写真です。
   60年代後半まではおさげはどちらかというと18歳未満の女の子向けというか子供や少女をイメージする髪型だったわけで、大人の女性がおさげをするという事が珍しかった時代です。
   多分この写真は、今で言う成人少女のツインテール萌え、の原点か起点みたいなものですね。ていうか、最近のコスプレヌードROMにも通じてる・・・というか、原点に近いと思います。「キュート」はこの頃からキューティーハニーにつながるキーワードになって行っていると思います。
   普段だと、「なんでカラーウィッグしか残ってないのに、コスプレヌードなんだ???」って僕なんかは思うけど、この写真は髪型で完全にキャラ立ちしてる、って点で、本当に近いと思います。
  (僕自身はフェチ的感性が薄いのだが)それぞれの女の子にとって、どんなヘアスタイルやどんな服が似合うかはヌード状態から考えるべきものだから、ヌード+各要素の積み重ねで、写真作品やファッションが成立するのは当然の事です。
  こういうヌードが元々あったから、逆に言えば今のコスプレヌードROMのカラーウィッグヌードが、若干大目に見られてる部分はあるのかもしれない。
  要するに、18歳以上の女性でも、カワイさを演出していいんだ、って表現が、この頃から始まってきます。
  当時のこういう写真的実験についてはまた更新予定。 (2015_2/20 3:33)


 ◎ 60年代後半から70年代前半にかけてハーフモデルとハーフタレントのブームが起きました。(2)
   右の写真はハニー・レーヌさん。1968年に16歳で、有名写真家・秋山庄太郎氏のヌードモデルとしてデビュー。とても清潔感のある少女ヌードモデルとして一世を風靡しました。(自分は大竹氏の写真も秋山氏の写真も好きですが)秋山氏の女性写真は花と組み合わされることが多く、特にハニーレーヌ嬢の写真はほぼ花と一緒に撮られている気がします。
  注目すべき所は、その後の成人映画(バイオレンス系含む)の他、その後70年代には『装苑』(71年から)『女性ルーム』『編み物ヴォーグ』などの手芸誌洋装誌のモデルとして活躍している事です。多分、彼女のキュートなイメージは、後の永井豪氏による『キューティー・ハニー』の発想に影響を与えているのではと思います。16歳ハーフ→ヌードモデル→各種洋装ファッションモデル、という点で。
  小川ローザさんの「Oh!モーレツ」のCMのイメージを永井氏が好んでいたことは結構語られてるんだけど(あのゴーグル付きヘルメット→ハリケーンハニー)、ハニー・レーヌさんの事はあんまり語られてない気がするよね。後に宍戸錠版ブラックジャック映画の「瞳の中の訪問者」(1977年)にも彼女は出ています。
  右の写真、白黒の方は2001年のアサヒカメラの再掲載から。どちらも秋山氏の写真なので当然芸術写真の範疇となります。芸術写真のバスト消すのは僕的にめちゃくちゃ抵抗があるし、ネットで検索すればすぐ出てくる画像なんですが、叩かれるの嫌なので一応伏せときます。ていうか芸術写真を児ポ法で規制するとか、ナンセンスだ、って典型。
  つまり、当時の少女ヌード写真のモデル少女なり、写真作品がなかったら、キューティーハニーは生まれてなかったかもしれないし・・・他の色んなアニメキャラも、生まれてなかったかもしれないんだよね。本当は。(近年の例だと、沢渡氏の少女アリス→FSSのクリスティン、等)
  で、90年代に「キューティーハニーF(フラッシュ)」ってリメイクがあったんだけど、あのアニメの中では、それまでと違って、空中元素固定装置が花のイメージなのは、あぁ、→のハニーレイヌ嬢の写真のイメージに逆に戻ったのかな、と思わせるものがあって、◎と思います。(僕が好きなキューティーハニーは、とりあえず70年代のオリジナルと、ハニーFなので。 (私物のF版空中元素固定装置ペンダント。本当はハニーの体内にあるんだが玩具ではペンダントになった))  (2015_2/20 3:11-39)
  P.S. で、キューティーハニー→セーラームーン→プリキュアなど、という流れになってます。戦う少女ヒロインアニメ、にはリボンの騎士などが初期にありますが・・・リボンの騎士当時の手塚氏とコスプレ少女の写真については後で更新予定。(2015_2/24 14:24)



 ●ニューリカちゃん期(72年以降の2代目リカちゃん)にリカちゃんと同じデザインの子供向けドレスが販売され、その頃から女児向けなりきり?も加速してくる。このドレスはなりきり目的だけでなく、完全に生活衣類としての利用が可能な本格派だった。子供が着せ替え人形になりきるという完全に逆転の発想ですが、最近でも撫松庵ジェニーエクセリーナ(買いましたv)の子供サイズの振袖が本物の撫松庵で販売される(この辺)、などのタイアップがあり、この路線は健在。
 (※追: 当時ブックレットによるとこんな感じ(画像→)。女の子用の子供服と、ニューリカちゃん用の同デザインの服と、ニューリカちゃんの髪のバラピン(バラ型のピン)を真似たバレッタのセット販売だった。3歳4歳6歳8歳向けの各4サイズ。
  取扱いは全国有名デパート・スーパー・ブティックなどで、「ズーゼット・リカちゃんランド」という所が問合せ先になっているけれど、ブックレットの時期によって問合せ先に違いがあります。
  (※ていうかリカちゃん服と子供服とセット販売だったのかも微妙。1年近く商品に付属していたカタログに載っているので、リカちゃん購入者への認知度はかなりなのだが)
  当時のリカちゃん服やサイボーグ服(少年サイボーグのスペーシー系布スーツ等)にはオンワードが縫製していたものもあるんだけど、ズーゼットとオンワード系に関係あるかは判らないですね。
  この服はリカちゃんの既存服をモチーフにした物ではなくて、リカちゃんの服と子供服を同時販売した品物と言った方がいいかもしれないんだけど、バレッタがついているのでやっぱりリカコスプレには違いがないと思う。この子供服バージョンのニューリカ服は、多分2代目ではかなりレア服の部類だよね。  2009_6/28)

 ●仮面ライダー辺りからお面に加え変身ベルトなどや少年ライダー隊ヘルメットなどができて、なりきり玩具が充実してくる。


NEW● 昭和40年代で有名なヒーローもののアトラクションと言えば、後楽園遊園地の仮面ライダーショーで、大体ライダーカードが流行った時期と同じ頃に流行っていた。
   自分も後楽園遊園地には母や祖父母とライダー(多分新1号)見たさに行った記憶があるんだけど、戦闘員が子供たちを壇上にさらって訓練を受けさせる(これは当時からそうだった)為に観客席にさらいに来るのが怖くて、初回はどうしてもそこにいる事ができず、家族がさらわれても困るので「みんなで逃げた」記憶がある(^^);;;。おかげでライダーショーでライダーを見損ねたというひどい話。
  で、コスプレパフォーマンスでもっとも活動的なものをアトラクションとするならば、それに多大な影響を与えたヒーローや怪獣のショー自体は、第1期ウルトラ前後頃から(もっと前から?)デパート屋上などでされていたようで、それをパロディにして、ウルトラマンの再生ピグモンのデパート出現描写や、ウルトラセブンのチブル星人のデパート戦描写があったりするようです。
  アニメキャラクターのマスクをかぶった着ぐるみによるショーも、既に昭和40年代前半には存在していて、初代リカの頃から等身大リカちゃんがデパートなどで販促ショーに出ていたりしました。当時なのでマスクは今から考えるととんでもないんですが、子供はみんなそれでも夢を見ていたようです。(2009_9/3)


 NEW● NTV系のヒーロー作品「突撃!ヒューマン」のキャラクターショー『ヒューマンとチビッコ大合唱』で、悪の宇宙戦闘員=フラッシャーたちのバンド「フラッシャーバンド」によるバンド+ヒューマンの、児童参加型ショーが行なわれた。「ヒューマン」は初代ウルトラマンやセブン、怪獣宇宙人マシン美術を手がけた成田亨氏の作品で、「8時だヨ!全員集合」のような、舞台上演劇の形式を取ったヒーロー番組。
  このショーの場合の、舞台上にドラムやギターを持ったフラッシャー隊員がいて、音楽を演奏しながら、子供たちが歌うという風景は、ある意味スターウォーズ第1作(今でいうエピソード4)宇宙人たちのバンドのさきがけと言える。キャラクタースーツと音楽の共存イベントとしても、本当に初期のもので、最初期のコスプレバンドと言える。
  (ただ、プロの人たちのショーなのでアマチュアリズムをモットーを考えるなら本当のコスプレバンドはもっと後、になるかもしれない)
  バンドのフラッシャーには、TV版ヒューマンの擬斗(スーツアクション)を担当していたビン・プロモーション(社長は初代ウルトラマンスーツアクターのアマギ隊員=古谷敏氏が社長)の、新見清一氏(TVのフラッシャーのスーツアクター)らが入っていました。 (※TV等のヒューマンのスーツアクターは須藤義男氏でした。)
  その後コスプレスーツとバンドが共存したイベントは、80年代には劇場版イデオンのイベントなどで行なわれるようになっていきます。最近は生バンド系のイベントは殆どないようですが。 (2009_9/3 右は某特撮誌のページ画像)
  ※フラッシャーたちのバンドのショー中での名称は「U・F・Oバンド」といいます。UFOバンドが数曲演奏して子供達が一緒に歌ったりしてからヒューマンとのアクションショーに展開していく形式だったようです。(←特撮ヒーローBESTマガジンより 09_10/19)
  ● 古谷敏氏のビンプロモーション以前は、各ヒーローショーは入場する親子からお金を取って上演する形態でした。デパートの屋上などで無料で見れるキャラクターの着ぐるみショーは、ビンプロモーションが日本初だったようです。(←「ウルトラマンになった男」参照。 2010_3/1) 


 NEW● アマチュアによるアニメ特撮キャラクター仮装コスプレとして、この頃(昭和48年(1 973年))、愛知県豊川市での「怪獣大行進&ミス豊川コンテスト」というイベントがあり、仮面ライダー、ゴジラ、変身忍者嵐、月光仮面などの人気もの仮装を、豊川市商店街青年部の人々が扮していて、圧巻と伝えられていたらしいです。画像は自分のFacebookページでシェアさせてもらった静岡新聞記事(沼津市の「昭和レインボー」さん掲載 )。
 報じているのは静岡新聞なのにイベント自体は愛知県豊川市なので、結構大々的だったのは間違いない。キカイダーも出ているのでは、という話なのだが・・・。商店街の青年部による仮装という意味で、おそらく昭和40年代のアマチュアによるアニメ特撮キャラの仮装として、大々的な例の一つなのではないかと思われます。
 嵐のマスクはアトラクションのマスクのようなのでレンタルなどの可能性がありますが、月光仮面は手作りでも可能に見えるし(アトラクコスチュームの可能性もある。ただ、この当時はアニメ版月光仮面なんだが、グローブの赤と黄が実際のアニメ版と逆転しているので手作りの可能性もある。)・・・手作りと借りたコスチュームが混在という印象はありますね。キカイダーの後頭部?は逆にほんと手作りに見えます。
 少なくともアマチュア(商店街の青年部ですから・・・)によるアニメ特撮の仮装、という意味では大田区やコミケなどよりは全然前だという事です。
 ちなみに画像貼っていた昭和レインボーさんは、静岡県沼津だからラブライブサンシャインも推しているらしいです(^^)
( 2019_3/5 11:10)
( ※後追: つまり。愛知県はコミケがまだ影も形も無い1973年当時から、一般人の商店街の青年部さんが、ヒーローや怪獣の仮装などをして、それが隣県でも報じられるくらいだったわけで(仮装行列などもそうでしたが)。しかも「大行進」とされているわけなので、仮装行列パレード、特にオリジナルかネタありにしても、怪獣特撮系?が多かったのだろうと思われる。(なぜなら上の記事にはゴジラしか怪獣は書かれていない。つまりゴジラだけでは怪獣大行進にならない)
  そういう愛知の十数年前からの「世界コスプレ〜〜」などのイベントで、都内から行ったコスプレオタクらが「アニメコミック特撮のコスプレはコミケが始めた」なんて言い出したりイベント内で吹聴したり果ては「仮装なんてものはコスプレではない」などと言い出したりしたら、総スカン食って当然なわけですよね・・・
 上の怪獣大行進イベントは1973年って事は、その頃の若者が10年前で50代後半から60代前半、今でもせいぜい60代後半から70代前半でしょ。しかもやってたのは今のイベントでも協力してる愛知の商工会に入ってる商店街の方々だったわけですから。そりゃそれは違うとなるし、当時イベントで仮装したりそれを見に行ってた子供たちは後にそういう発言を聞いたならば、「あいつ違う事言ってる」って当然、なるわけです。
  つまりコミケ至上主義で、昭和期の仮装行列などを排除っていうの自体がコスプレ史を語る上でもう既にコミケの連中は駄目だったわけで。で、今でも大田区が79年か何かにコスプレやってたからコスプレ発祥とか言い張ってるわけでしょ?やっぱり上のようなイベントを思考から排除しているわけで。僕は昭和の仮装行列肯定主義者なので(仮装行列で有名な富山にも住んでた事あるので)仮装史をアニメ漫画特撮のコスプレ史から排除しません。(2019_3/5 16:26)  


 ● お面やヘルメットメインのなりきりグッズについにフルフェイスのライダーマスクが登場したのは、「仮面ライダーV3」「仮面ライダーX」(73、74年ポピー製)のXマスクから。ヘルメットに口部分のパーフェクターをとりつけた形のマスクで、それまでのお面に比べて圧倒的にリアルだった。(※右画像参照。Xマスクは某玩具系書籍の表紙より。表紙には載っているのになぜか中には掲載されてない;)

(補記: フルフェイスマスクはXマスクよりもV3マスクの方が早かったみたいです。V3マスクは口の部分が取れやすいらしく、僕は口の無くなったのしか見た事が無かった。あと、1号2号ライダー当時もヘルメット(目の下は素顔になる)やプロテクターなど販売されてました(画像)。しかし、黒のジャージ上下と白手袋白長靴、赤スカーフがあれば、このプロテクターと変身ベルトでほぼ仮面ライダーになり切れたのか。すごい。
こちらの画像は某昭和誌から。当時玩具多数収録でおすすめの本!! 2014_12/7 21:44-22:11)


 ●女子のコスプレ願望の起源を永井豪氏の「キューティーハニー」(73年)に取る人がいて、それは多分間違っていないと思いますが、ハニーの胸のダイヤ型に近いカットのされた、タカラの着せ替え人形リカちゃん初代の、レザーシリーズドレス「ダイヤ」(71年。私物画像)が存在していて、もしかしたらそれがハニーデザインに影響あたえた所もあるのかなと自分は思っていたりする。レザーは結構フェティッシュでもあるし。
  これはまんざらでたらめを言っているのではなく、ワニブックス社の「永井豪ヴィンテージ漫画館」(P74)によると、ハニーは当初から男の子向けの女の子人形を作ってもらいたいという意図での企画だったらしく、けれど玩具会社が男の子向けの女の子人形は売れない、と判断したためハニー人形を作ってもらえなかったのが、永井氏は今でも本当に悔しいそうです(^^);
    ※放送当時人形立体化はパトラ製ペンダントと、ハリケーンハニーのバイクに乗ったハニーライダーのみ。(ポピニカ記載はないけれどその扱い)

 ●この間、変身ブーム、魔女っ子ブームが来ているが、女子玩具であるリカちゃんの職業ドレスは71年位から存在している。同変身パットちゃんが72年ごろ。
  また男子変身玩具でもっとも有名な変身サイボーグ1号(1体の素体で40以上ものヒーロー服を着まわす)もこの時期に存在していた。
  つまり男女児童の変身願望を玩具でかなえるものは既にあり、コスプレはその時期に育成された変身願望が、現実にリバウンドしてきたものともいえるかも。逆に人形にはまらなかった人がコスプレにはまったという考え方もありますね。


 ● もう一つの考え方として当時はやったスパイもの(もう少し前だと多羅男伴内のような七変化もの)の「スパイ大作戦」や「チャーリーズエンジェルズ」で、主人公達が各職業に華麗に変装する姿に感化された人々が、コスプレしてみたい、という扮装欲につながっていったのかもしれない。ミラーニューロンを刺激された、とするべきなのだろうか?この辺結構コスプレを考える上で重要かもしれない。もともとコスプレイヤーはミラーニューロン過多な人々なのかもしれない。同人の人々も別の意味でミラーニューロンが多いのかもしれないのだが。
  とりあえず、「そういう人生を演じてみたい」が「演技してみたい」になってアクションを起こすのが役者で、「姿だけでもトレスしてみたい」がコスプレなのかとも思う。
  むしろ昔は演じること(actもしくはパフォーマンス)とコスプレは非常に密接だったわけなんだけど、パフォーマンス禁止になってそうもいかなくなってるようである(この件は80年代項にて)。


 ● この研究ページではあえて風俗世界における「コスプレ」を、対象から外そうと思っているのだが、
  一応書いておくと、スチュワーデスや看護婦、セーラー服を着用した風俗嬢がサービスをするトルコ風呂店がはじめて出来たのは北海道札幌市のススキノで、1971年の事だそうです。
  通常のコスプレ評論や2chコスプレ論だとこの風俗の方が早いことになってしまう。一応こう書いておけば、コスプレというジャンルでは風俗の方が早い、という誤思想でコスプレイヤーが劣等感持つこともないと思うので、一応書いておきます。しかしこのススキノの店って先見の明ありすぎ;


 ●このページを作ってからコスプレ=風俗起源説の人々による叩きが激しいんですが、
  風俗の場合のコスプレは「コスプレ=奇装」ではないよね。
  現実自分とは違う職種や女学生の制服を着ることが、風俗の場合のコスプレ。自分と同じだったらコスプレじゃあない。花魁が花魁の服を着てもコスプレではありません、確かに。
  また、演劇やレビューショーなどの舞台上での衣装がコスプレかというとそれも違うわけで、だから上の段で「シャーロキアンの集会に招かれたホームズ俳優のウィリアムジレット氏」のくだりを引用するかしないか迷った。役者がホームズの服を着てもコスプレではないですから。
  つまり、演劇でいうCostumePlayが、どう演劇と切り離されていったか、という事が、イコール 現代のコスプレの歴史 だと思うんだけど、それはつまり「コスプレは本質的にアマチュアのみの文化でプロは成立しないジャンルだ」ということかもしれない。ここ重要。
  もしくはアマチュア演劇→パフォーマンス→撮影会モデル(イベントでも実際撮影会と化している)、それ以前にアニメコミックゲーム小説のように、コスプレは何かのジャンルに依存して(もしくは依存対象を変えつつ)存在しているのであって、現状単一で存在しているジャンルではない。
  実は自分はそれが不思議だったりする。コスプレはもともと服飾なのだから、なんで服飾に依存しようとしないのか?????(これ、後で書きますが・・・簡単に書けば、服飾にとってのアウトサイダーだからである)
  けれどやっぱりアニメコミックのコスプレと、風俗でのコスプレには明らかに異なった点があるわけで、「他の職業を演じる」という要素とはまた別の目的がコスプレにはある、って事でこの先書いて行こうと思います。


 ●スタートレックのイベント、STコンベンションの開始は1972年から。



◎ この頃、写真家の沢渡朔氏による「少女アリス」の展覧会が西武百貨店で開催され、後に写真集も出版される事になります。(この項徐々に更新)
  先日の展覧会に行った時に沢渡氏の娘さんに伺った事も込みで書きたいので、ドール美術系日記に詳細、こちらで簡略に書く予定ですが・・・・・・(※僕の持ってるのは初版第2刷)
  そもそもこれは西武百貨店のクリスマス期展覧会に合わせて企画がスタートして、その後イギリス撮影、モデル選考などが決まった展覧会だという所が一つのポイントではあります。
  ファンタジックな写真の作品世界と、モデルのサマンサ嬢の愛らしさは、写真を見た人々を魅了し、その後それに影響を受けたコミック群も多く生まれる事になります。
  例えば大島弓子先生の「綿の国星」のチビ猫も、この少女アリスのサマンサ嬢(子猫っぽい写真あり)がいなければ、あのソバージュや白い服や顔つきになってなかったかもしれないし(1978年から連載)、最近ではFSSのクリスティンVの子供の頃とか、色柄は違うけど、あの太い縦ストライプの服になっていないかもしれない。 (「詩とメルヘン」より画像2枚
  ちなみに、サマンサ嬢が白服着ている時の後ろのヌード女性は彼女のお姉さんで、同時にオーディションを受けてたらしいです。
  (※ 70年代後半に大島弓子さんのコミック作品集がサンリオから出ていますが、1975年のサンリオ刊の「詩とメルヘン」(責任編集:やなせたかし先生)にも「少女アリス」が掲載されている号があったりします(ヌードはなし。別役実という人の「遠くにいるアリス」の挿絵に15枚使用された)。)
  で、「綿の国星」のチビ猫は、コミック界におけるネコ耳少女の元祖と言われているわけで、チビ猫がいなければ、コミック界のネコ耳表現は、もっと誕生が遅れたものになっていた筈です。
  (後記: 一応「S」の「けものの」特集での大島先生によると「明治か森永のお菓子容器の髪をカールした女の子」のイメージが発端、と書かれているんだけど、そういう内面的な所を発端にイメージが色々変遷してるんだなとは思う。実際チビ猫の絵柄は時代によって変化しているので。
    まぁ、チビ猫とラフィエルの身長対比とかも、サマンサちゃんと巨人青年の身長対比に極めて近いから、言わずもがなだけども。他、黒背景コマとか。 後記終わり)

  ( 右の写真は「詩とメルヘン」掲載分で、「綿の国星」の有名な黒背景コマに通じる雰囲気がありますが、当時にこの写真を見れたのは、多分西武百貨店展覧会と「詩とメルヘン」に掲載されただけで(他の雑誌などは確認してませんが)、写真集「少女アリス」の方には掲載されてません。 ・・・昨年に河出から出た「少女アリス・スペシャルエディション」で、この写真が晴れて再掲載された感じです。面白いのは、元々この写真自体が黒バックなんだけど、75年の「詩とメルヘン」に掲載された時には周囲をカットされて黒バックを編集で作り直してあるって事で・・・。詩とメルヘン掲載は、写真集と違うアナザーカットや未掲載分が若干あるんだけど、カラーが明るくて構成が非常にファンタジックです。  スペシャルエディションは文化的意義がものすごくある写真集なんだが、元の「少女アリス」を見てないと意味不明な点もあるかな。 どっちも昨年の展覧会でサインもらえて嬉しかったです。  後追記終わり)

  ・・・ドール系でも、あ、これは少女アリスだな、と思う球体人形を作ってる作家さん作品が時折あります(当時のサマンサちゃんそのものを作れる人は少ないと思いますが)。それだけすごい作品集だって事です。
  見たクリエイターの方それぞれで写真を見てから、考える事が違う、って事だと思います。逆にそういう風に人に良い影響を与えるものは芸術としか言いようがないわけで、にも関わらず「少女アリス」などの良質な芸術作品を各ネットから書籍欄など削除しようとしている今の動きは、極めて異常だと思います。まぁコミック作家もさ、影響受けたって人が「受けました!」とちゃんとみんな口に出せば、ここまで少女ヌード系写真集が「頭がちがちの無理解層」に貶められる事もなかったんだけど。
  結局、写真史とかコミック史を解ってないんだよね。
  沢渡さん達自身は、「自分たちはもう表現の自由について表立って戦う気はない」と展覧会の時にもおっしゃっていて、つまり「見れば解るだろう」というそのスタンスを崩していない。逆に声高に叫ぶのはおそらく写真家のスタンスじゃ無いって事なわけで。(おそらく「無粋だ」って事でしょう。戦ってくださいよとか言う意見もあったらしいが)
  ともあれ、なんていうか僕は、そういう規制って「歴史の寸断」だと思う。
(2015_2/24 14:12)

  で、それに対しては、本来は書店や問屋や図書館などが、政治や警察に反発しなくちゃならない筈なんだけど、図書館にそこまで写真やコミックの系譜を理解している人が少ないので(僕は今の図書館は・・・と思う)。公立図書館とかは地方自治体と組んでるものだけど・・・・私立図書館はもっと頑張らなきゃ駄目だよと思う。上が規制しろと言ったら全部規制、って、なら各自一般人の良心や美意識はなんなんだ、って事になる。せめて各作品集の芸術性は認めないと、当時作品を見た人々の感動と芸術認知はなんなんだ?って。本当に愚かな現代だと思う。   ( 2015_2/24 14:14)

  サマンサ嬢のヌードは、英ロックバンド・レッドツェッペリンの「Houses of the Holy」ジャケット(ヒプノシスデザイン)の方が先なので、日本人写真家が脱がせたとかそういう馬鹿馬鹿しい批判はありえないと思う。ていうか、最近イギリスからの日本アニメへの風当たりが強いのはなんだかなぁと思う。
  (2015_2/25 16:09)


◎ 70年代のカメラ系ヌード広告の続き。(右はカメラ雑誌広告分)
  1974年、町のカメラ店や写真屋さんに、右のヌードポスターが貼り出されました。フジフィルムの出していたカメラ「フジカST801」のポスターで、女性はGerd Tinglumさんと言いました。
  それまでにもカメラやフィルム関連のヌードポスターは多かったわけですが、彼女の身体が相当に豊満だったため、一般市民は相当びっくりしました。けれども、意外とこのポスターは評判が良かったです。僕は当時小一だったんだけど、多分現さいたま市の某商店街の写真屋さん(カメラ屋さん?)にも、親戚の家のあった区の商店街の写真屋さんにも、しばらくこの「ゲルトちゃんポスター」が貼られてたと思います。ていうか結構普通に貼られてました。(フジカST801を買うと、彼女のポスターが3枚もらえたんだそうな。画像参照。つまりカメラも売ってる写真屋さんには貼られてたわけね。)
  ていうか、商店街のお店の、特におばさんたちが、結構ニコニコしながらこのポスターを見てたわけで。「かわいいわねぇ」とか「色が白いっていいわねぇ」とか(そりゃそうだよ白人だし!)、おじさんも「愛嬌があっていいよな」とか。いわゆる芸術ヌード系じゃない人達に相当に受けていた。当然「なんでこの女の人ハダカなのー?」という幼稚園少女とかの言葉もあった気がする。僕はと言えば「・・・・・・わからない!!(^▽^)」とお手上げ状態でした。女の人ってわかんないなー・・・(って小1の僕は思った)。
  で、このポスターが社会認知されると同時に、ヌード写真系のカメラ広告はちょっと減ります。なぜかというと、彼女がインパクトありすぎて、しかも日本中の一般市民に受け入れられてしまったので、ある意味「ヌード写真撮影についての社会の認知とカメラマン&モデルへの理解」が達成されてしまったからです。目的が達成されてしまったから、殊更無理解層に対してヌード広告をぶつける必要がなくなった。
  「こういう太った女性でもヌードは清潔感あって長所はある・・・つまり誰かが大事だと思う人を大事に撮っていいんだ、恥ずかしがらずに写真撮って、現像してみてください」って、そういうテーマなんだよね。これ。当然アートヌードです。ポルノだったら写真店がそうそう軒先に貼れないので。
  1974年に「フジフィルムがこういう広告で全国カメラ店キャンペーンをした」=「フィルムの現像プリント依頼があれば、ヌード写真の現像プリントも請け負う」というシステムが整った、という事で。つまり、ヘアヌードや性器画像でなければ、(ここまで例示したようなヌードなら)町の写真屋さんから現像プリントできる体制になったのが、この頃だ、ともいえます。
  (※ ヘアヌードの現像プリントが解禁になったのが大体1995年前後(珍しくなくなったから)、現在はフィルム現像自体はどんなものでもしてもらえるが、プリント時点で性器が写ってる写真はキャンセルされる時があるらしい。 デジカメの自宅プリントがここまで常態化してたら意味無い気はするが 教えてGoo
  そして写真における健康的なヌード表現がほぼ出揃ったのもこの1974年ごろです。
  つまり写真による健康的なヌード表現と、それが芸術であるって認知は、日本では74年に完成された、と言えるわけです。芸術的性表現ってどんなものか、それはカメラ関連のヌード広告見てきた一般人たちは解ってたわけですが・・・。それが一応の結実を見たのがこのポスターで、74年だったと言えると思います。
  そして翌年コミケが始まります。写真では芸術的ヌード表現がほぼ出揃っているのに(まぁSMなどひどいものもあったわけだけど)、コミケが行う性表現とはどんなものだったか。長期スパンでいえば健康の反動は、不健康であり病気であり。芸術の反動は非芸術であり「マーケット」で売られる商品である。これは芸術写真ではない写真もそうなんだが・・・・コミケの同人誌の性表現はどんどん病んだものが勝利する状態になって行く。長期スパンで言うなら。
  アニメやコミックには純粋な表現もあるけれど、写真には写真で人間の身体に近しい表現があるんだよね。  (2015_2/22 4:18)

  ※ つまり、リベンジポルノがなぜ問題なのかというと、撮影された写真が芸術ではなくポルノだった場合以前に、それが「リベンジ」(復讐)だから問題なわけですね。(写真が芸術だったら批判対象足りえない気もするんだが)
   ・・・この日本は「復讐」や「私刑(リンチ)」を禁じています。で、なぜHの相手との写真の無断公開などがリベンジになるかと言えば、それはネット(2ちゃんだけではなく)で、被写体女性を中傷(彼らは論評だとうそぶきますが)する連中がいるからに他ならない。
   ていうか右のゲルトポスターにしても、清潔に撮られているし、いやらしくは無いでしょ?
   ところが、女性ヌードを中傷したり揶揄する意見を、今のネットのクズ市民は言うから、リベンジが成立してしまう。ゲルトポスターを見た昭和当時のおじさんおばさんのように、本当は長所だけほめれば「リベンジになりえない」わけです。
   表現というのは、表現する側が表に表出させるからこそ表現なのであって、受け取り手はそのテーマを類推するだけでしかない。その事を現代のネット市民はみんな忘れています。愚かというしかありません。  (まぁそれを最も忘れているのがコミケ系列だったわけだが 2015_2/22 12:35)



------ コミケの成立時からの問題点について。随時更新
●  この後1975年12月に、コミケ(主催者サークル名は「CPS」、サークル誌名は「いちゃもん」)が開始しますが、その成立の手口は、まさにテロ行為によるクーデターというにふさわしいものでした。
  詳細は後に更新しますが、以上で書いた通り(今後も書きますが)日本におけるアニメ漫画の仮装はコミケが始めたものではありません。各地の仮装行列や学校の学芸会文化祭などでの仮装の方が先です。また、後でUPしますが、若き手塚氏が手塚キャラのコスプレをしている少女と撮影した写真というのも、これ以前に存在しています。
  さらに元来のイベントにおける仮装はコミケで始まったものですらありません。コミケがつぶしたアマチュア漫画ファンのイベント「漫画大学」が、仮装を容認した事で、そこで始まったものです(彼らが後にコミケ成立に参画したことは事実なのですが)。というか、マスクを付けた以外はさほど忠実ではないやっつけ的仮装だったようなので、必ずしも仮装行列の仮装よりレベルが高いとかではなかったようですが。
  同人誌も、トキワ荘漫画家たちが東京に上京した頃からあり、「超人ロック」の聖悠紀氏は67年ごろ既に同人誌で作品発表してるわけなので、当然コミケが始めたものではありません。

  コミケの成立にはそもそもの問題性があります。もっとも問題なのは、その当時の(まぁグレンダイザーやゴレンジャー、鋼鉄ジーグや各少女マンガなど、既に生まれていたわけですが)アニメや漫画に対して・・・評論と称して文字通り「いちゃもん」を付けるサークルたちが、漫画大学から奪い取った参加サークル層をたばねて、その主導になってしまっていたことです。
  これは当時について書かれた某「〜創世記」にも書かれていますが、彼らの主張はこうです。「アニメ・漫画などは、評論をされない限りただの漫画でしかない。我々が評論をする事で彼らの作品は意味あるものとなる」という主張です。極めて的外れで意味の無い主張です。
    簡単に言ってしまえば、作品に対する非難や中傷を容認する「いちゃもん」行為によって、彼らはステータスを築いていったわけです。 しかし、自ら漫画創作がろくに出来ない人間が各アニメや漫画などの品評や優劣を語り、それを「語ってやらないと」アニメや漫画には価値が成立しない、という思想は極めて異常です。(僕は、アニメや漫画は作品そのものが最初から意味やテーマを持っているものだと思っているので)
  まぁコミケスタッフに創作の実力が無いってのは、昔も今も変わらない事ですが。(僕と比べても全然実力無いしな。)
  いずれにしてもコミケが成立した根底には、各アニメ漫画とその作家に対する「品評行為」「誹謗中傷行為」があるわけです。その時点で既にコミケは表現職の人々に対するアンチギミックでした。


  それはつまり彼らのやりたい放題の「いちゃもん」なわけですが、しかしコミケの主催達には、原潜反対デモで火炎瓶を投げていた故・米澤氏や高校全共闘だったイワ●モン氏など、学生運動に参加していた人々が多く、つまり人集めのテクニックが非常にうまかった。人を丸めこみ束ねる事が巧みな人々が集まっていたわけです。
  CPSは、後に不正経理や暴力行為、参加サークルの個人情報の見せしめ流出で有名になった「コミケプランニングサービス」の略称の元でもあります。つまり昔のコミケを始めた人々のサークル名を冠する事で、他からの文句を封殺して、顰蹙行為の好き勝手をしたわけです。暴力的特務隊を擁する「CPS」不正経理事件やサンクリホール借りそびれ、それら顰蹙行為に対する批判を封じるための、サンクリとコミケ委託スペース参加サークルの個人情報のCPSスタッフによる見せしめ流出、のCPSの元ネタです。
  それでも70年代にはまだ理想があったのでしょう。
  元々漫画大学からコミケが人を抜き去ったのは、16歳の少女(80年代に故人)が漫画大学スタッフにクレームを出した時に「だったら参加しなくていいです」とその少女が漫画大学から言われて、それに対するシュプレヒコールを後のコミケ開始スタッフたちが延々と盛り上げた事によるものでした。そして漫画大学イベントは衰退し消滅しました。
  しかし客観的に考えれば、16歳の少女に対して「大学レベル」を維持したいとしている漫画大学が「来なくてもいいよ」というのは、考えてみれば普通の年齢制限的発言であり、それを言った「漫画大学」側は普通ではなかろうか?という考え方もあります。
  (後に、その16歳少女はコミケ主催サークルの一人と結婚したのだが、それがコミケスタッフが参加者をナンパする際の免罪符のようになってしまっていた。言ってみれば、後に多発した スタッフによる恋愛顰蹙行為の免罪符になってしまった。至、昔のコミケカタログの「いかさまスポーツ」のようなスタッフ状況)
  ・・・漫画大学は元々実験的漫画雑誌「COM」などの流れから、新人漫画家を育成する目的で生まれた雑誌コーナーの、今で言うオフ会イベントのようなものだったので、オリジナル作家養成や企業漫画家論評を大学的に行うイベントだったようです。つまり今、各大学や美大や専門学校で漫画についての学究をしている人々のはしりみたいなイベントでした。コミケはそれをつぶす事で出来たわけです。
  今はどうだろう?僕なんて性的盗撮をしてなくてそれでスタッフにつかまった事すらないのに(全イベントにおいて)、僕が、コミケがまともに告知もできていない撮影ルールの件を批判し、スナップ写真を擁護したってだけで、結局コミケコスプレ広場出入り禁止で、さらに「同人スペースに来るとスタッフが何をやるかわからないぞ」と元コスプレ総統括に脅迫まで受けたりした。
   とっくにコミケには草創期の理念は殆どないまま30年以上が経過しましたが。
   コミケ批判者に対する虚偽やデマや中傷を操る事で、現在のコミケは運営を続けているのであり、スタッフにはまともな論評はなく、ろくな創作者すら無きも同然です(まぁ僕のレベルと比較するのが無理ありますがーあっはっは)。
   しかし、「いちゃもん」行為を中核にして生まれたコミケには当然のごとく限界が発生し、その中傷の矛先、サークル作家に対する彼らの勝手な優劣品評の矛先はサークル参加抽選の中にも現れ、結果的にコミケの価値基準や既得権益臭を嫌った他の多種多様なイベントが生まれていく事になります。

  つまりコミケの問題性というのは、そのそもそもの「中傷性」です。
  ただの中傷性ではなく、入れ替わり立ちかわる中傷者の集団を束ねてコントロールし、草創期に漫画大学を潰したように、多くのプロアマ作家のサークルやその他を威圧している。それが成立期から続いてきました。
  例えば2ちゃんねる「同人イベント板」は初期は「特設コミケ板」と言いましたが、あの辺のスタッフは2chとコミケはかぶっていていわばタイアップ板です。コミケが掲示板を持つとスタッフの顰蹙行為がばれるので、コミケはずっとネット掲示板を持てず、だからあそこが活用されていたわけです。あの中での中傷行為も支配している言論コントロールの連中がいるわけです。(ていうか同人板のdatからhttp://yasai.2ch.net/doujin/kako/1008/10081/1008172524.html が消えてる。ひどい話。コピペはhttp://uni.2ch.net/test/read.cgi/comiket/1285090689/の61レス目以降などに散在。)
  70年代以降イベントが増えたのは、地方イベントが無いから、でもあるけれど、コミケの主張が我慢ならないから生まれたってイベントもあるんだよね。しかしそれもコミケスタッフは論評にもならない論評で潰してしまう。彼らの論評になど意味は無いにも関わらず。
   僕は、コミケ系列の漫画アニメ論評やサークル当落選考などは、アニメ漫画文化における癌細胞のようなものだと思います。選考が同人作品それぞれの価値やテーマに直結していないからです。
    コミケの腐敗(2次創作の無修正エロ同人誌のホラー残虐系スカトロ系や(90年まで年齢制限がなかった)、80年ごろ以降の直営店によるナチス軍服腕章販売、ナイフ販売、薬物、拷問、死体、呪術、性風俗書籍等販売など)は結果的どんどん進んでいきます。(まぁ無修正ってだけで罪にするのは世界的にもおかしいとは思うけどさ、二次創作でスプラッターでスカトロってのは駄目でしょう(80年代ページ参照))
  この項随時更新。(2015_2/22 13:06から更新開始)



 ●この頃日本SF大会などのイベントで仮装がスタートするが、定着するまでには時間がかかったようだ。例の同人イベントの初回は75年12月(74年じゃなかったです、すいません)。2回目は76年。
  つまりは「仮装行列」的なものをイベント内でやってみようという事である。したがって撮影ルールなども仮装行列に準じていたと考えられ、現在のものに近くなるのは実に90年代のことである。



 ●少年少女から青年が増えてきたアニメファンにはヤマトブーム頃からコスプレが浸透したわけですが、
  「さらば宇宙戦艦ヤマト」でプロデザイナーの花井幸子さんが衣装デザイン協力したためにアニメキャラの服飾デザインの地位は飛躍的に上昇しました。(当時書籍による紹介はこんな感じ→)
  デザインされたのはテレサの服などだけど、テレサはほぼフルヌードのイメージが強いし(ヤマト2ではドレス着用だが透けているのを除けばイメージは違う)、森雪のジャンプスーツは実はワンピースなのでお手洗いに行く時には全部脱がなきゃいけない・・・のようなデザイン優先的な服(^^);
  古代進の艦内服もデザイン違い、森雪の艦内服準備稿はピンク色だった。
  けれどもそれらのファッションを着て作ってみたいという気持ちも当時のコスプレイヤーが増えた理由にはあったらしい。実際には劇中通りの艦内服や戦闘服着用の人が多いのだけれど。
  ※花井幸子さんデザインの古代進たちの私服Tシャツは、劇場公開時販売もされた(右写真上)。赤・紺・緑の三色で、各2800円(一応デザイン画もO●Tの78年9月号に載っていた)。
  (11/11補追:この辺がC●SPAが今やってるようなキャラクターアパレルの原点。厳密にはアメリカのスーパーマンシャツが最初なのだろうが。)

  ヤマトのコスプレ自体は試みる人が多かったのだが、ヤマトブームの火付けを担ったのはそれまでカルト系記事の多かった「O●T」誌が、ヤマト特集を行なったのがきっかけで(別冊は「ランデブー」誌)、1977年9月号には「貴方にもできるヤマトファッション」(P134)という特集が掲載され(こんな感じ→)、その後読者ページにコスプレ写真投稿兼仲間募集があいついだ。
  内容は古代進、森雪、島大介、真田、デスラー、ヒスやビーメラ星女王や看護夫Bらのヘアアレンジ法解説で、森雪コスチュームの縮小型紙図まで付いていた(男服は作るのが楽なのでつかなかったようだ)。当然ヤマトファンはこれを参考にコスチュームを自作して、それでヤマトコスプレが広まった、という事もできます。
  ちなみに今でも某ロードで有名な某(ケッダーマン)氏の第1号のハリボテアナライザー(製作76年)がヤマト映画第1作公開当時に各地デパートで開かれたヤマト展を巡業していたらしい(77年夏)。直接は見なかったけど、テレビのニュースで見てカッコいい!と思った記憶はあります。


 ●「ベルサイユのばら」(連載は1972~73)は連載後に宝塚ミュージカルや海外映画やアニメまでできるほどの大ブームとなったわけですが、
  そのブームの原点には少女漫画のお姫様ものがあったと思います。あとはポーズ人形やリカちゃんドレスとかね。
  男装の麗人オスカルはつまり、リボンの騎士=サファイア姫と同じく「少女は必ずお姫様を夢見るもの」という既成概念を覆す存在です。けれどもやっぱり少女漫画のお姫様コミックというベースがあって、ベルばらのリアリズムが生きたのではないか、と個人的には思います。
  宝塚歌劇団のミュージカル版は大ヒットしたわけですが、それでも74年の初演時、コアな原作ファンにはミュージカル版を認めない人もいたらしいです。けれども後にはベルばらといえば宝塚歌劇となり、欠かせない存在となっていきました。
 (※右の写真は76年4月の雪組パンフ。オスカル:汀夏子。アンドレ:麻美れい。キレイです!!ここまでの時点で3つの組がベルばらを演じていて、シナリオ的にも中心人物の差があるらしい。)
  そのブームから、ベルばらは後年かなりの一般中学高校大学などの文化祭や演劇部などで上演されたようで、コスプレよりもむしろファンの演技欲とか舞台欲を直接刺激されていた。
  しかしやっぱり人数がいないと演劇はできないし、演技の上手い下手の問題もあるし。つまりイベントではコスチュームを作って着た時点で我慢しなくてはならない。パフォーマンスはともかく演劇は難しい。
  また、アニメのキャラクターやその作者に心酔し崇拝するファンにとっては、コスプレをするというのは元作品への冒涜(&宝塚スターへの冒涜)とも言われかねない時代で、相当に努力して衣装を作り、似合っていないと認められづらかったらしい。この辺は今の子にも判ると思いますが・・・
  従って70年代にベルばらの衣装を着ていたのは、コミックのファンではあっても同人系というより、学生の演劇同好会的な人々が多かったのではないかと考えられます。
  ベルばらのコスプレをアニメ誌などで見かけるようになったのはかなり後の時期だと思います。(2009_1/21)


●ピンクレディーの奇抜な衣装や、さらに輪をかけたのは沢田研二がTOKIOを歌うパラシュート+電飾の姿で・・・僕が子供の頃のクラスでも学習発表会だか何かでみんなで作ったパラシュート背負ったクラスメートがいたなぁ、確か。
  子供の世界でそんなのがあった位だから、大人はもっと凝ったものを学祭などでやっていたわけで、ただ、芸能人は一般的衣装を着る人も多いので、よほどの特殊な舞台ドレスのコピーでない限りは単なる「●●ルック」であり、コスプレとは呼べない。

  ( 追:同じ意味で、本来ミリタリーコスプレも、コスプレと呼べるかどうかは判らない。特に当時のアニメがヤマト等に見られるように「人類愛」や「平和」をテーマにした作品が多かった風潮上、
  軍装なんて単に自分で作りもせず、店から買うだけじゃないか(もしくは悪ふざけだろう)、という考え方が基本的に存在し、また、アニメ系と軍装系が両方同じ場所にいるという機会も少なかったため、両者の価値観の対立はしばらく続く。(自分は結果的にこの価値観対立時代からのオタクなので、今でも軍装をアニメコスプレと同列に考える事は変だと思っています)
  ただ、ア●メージュは78年の創刊号(7月号)から米軍の放出ミリタリー服を売っている販売店の広告を掲載している(ナチス系は多くはないが)。
  したがって軍服コレクターの存在自体は初期からアニメファンも知っていたと思われるが、軍「装」自体は、上記風潮からひんしゅく以外の何でもないという時代が続いた。
  軍装そのものはアメリカ戦争映画やGIジョーの流行った時代に「戦争ごっこ」があったので、その延長。それまでミリタリーコレクターはいてもその服を実際に着てくる人間はいなかったし、沢田研二の「サムライ」における親衛隊服があまりにカッコよかったために、その姿の真似をする学生たちも出たりして問題になり、沢田氏の服のハーケンクロイツが×印になったりもした。ちなみに沢田氏は「さらば宇宙戦艦ヤマト」のエンディングも歌っている。
  しかし何かと複合して表現されない限りは軍服自体はその時代の各政府軍の思想の体現でしかない。その辺が自分が軍装をいいと思わない理由でもあります。)


  ● 以下、コスプレにはあまり関係ないですが・・・
    1978年にロマンアルバムシリーズ(徳間書店)が開始されるが、先のO●Tのヤマト特集までは一般雑誌がキャラクターの設定資料を掲載することは非常に少なく、それもロマンアルバム開始のきっかけになった。それらの研究はそれまで同人誌やファンクラブがやっていて、当時ロマンアルバムは「ファンクラブ殺し」と呼ばれていたらしい(AM81年7月号)。
  しかし、徳間書店側がアニメファンの動向に目をつけるのもかなり早く、78年内発売分の各書籍でも既にファンクラブ会誌などが紹介されている。
 例としてロマンアルバムの「UFOロボグレンダイザー」(78 年末発売)では、グレンダイザーFCの「スペイザー」が2ページ丸々使ってスペイザー号外を掲載している(ぼけてるけど右画像→)。FC主催の時松さんは、同書の原作永井氏を加えた座談会にも同席している。
  このスペイザー誌の方々は現在でも充分通用するほど絵のレベルが高く、FCでは他に「スライドアニメ」(イラスト+セルなどを写真撮影してプロジェクターで上映するもの)のパロディ(既にパロディという単語が使われている)「幻の向こうに死神を見た!」という作品を作って、上映会なども開いていた。(画像、本のページの左上カット=ベガ獣の幻覚光線でマリアのヌード幻覚が甲児を襲うなどかなり楽しい内容!♪)スライド製作は当時の中高生にも結構知られている手法なので、それを応用するアニメファンもこの後増える。自主実写SF作品のスライド上映なども増える。
  また会誌スペイザーでは、「続・UFOロボグレンダイザー/ゴッドマジンガー」という連載漫画もあったらしい(画像、本のページの右下カット=ゴッドマジンガーのデザインも非常にかっこいい)。「ゴッドマジンガー」はグレートマジンガーの時の没タイトルだそうです。(この件については教えてくれて感謝)。東映動画のPDの勝田稔男氏らがこのファンクラブのバックアップをしていたらしい。
  80年代になると自主制作アニメもけして珍しくはなくなるのだが、8mmなどは画質の問題や金銭問題も手間もかかるので、このようなセルイラストのプロジェクター上映が増えたらしい(プロジェクターなら学校にも公民館にもある)。それを原作者も公認していたというのは、本当にいい時代だったんだろうなぁと思います。(2009_2/8)
  

 ● 個人的な当時の話。僕は小学校4〜6年の3学期(の始業式)までの間、北陸のT山県在住でした。で、転校先の学校が改築されたばかりの所で、T山県は教育にお金をかける所なので、かなり設備的に最新のものが揃っていた。
  自分は放送部でアナウンサーとかもやったんだけど、既に大型のカラーテレビカメラ(僕の背より高い)や放送ブースがあったりして、それを使って週一で校内クイズ番組(給食中に流す)もやったりした。問題考えたり編成したり撮影したりしていた。70年代としてはかなり先進的だったと思う。自分の撮影体験は、たまにしか使わせてもらえなかった父のフィルムカメラより、この小学校のテレビ放送用大型カメラの方が早い。
  クイズ番組ではワイプ機能も使ったけど、子供には判らないスイッチを先生がいじってしまって、視聴覚室の廊下側の窓からパネルをぶらさげて得点表示した事がある(爆笑)
  あとは4学年の合唱劇で「泣いた赤鬼」の赤鬼やったりしました。ソプラノソロもやった。 これは全体でよかったという事で、地元新聞なんかにも載ったけど、今にして思うともっと地元の子で赤鬼にふさわしい子がいたと思うし、邪魔をした感が強かった。いい思い出だったけど、自分はやっぱよそものだったと思う。
  いじめもあったけど、生徒会副会長もやった。結構、頑張ってました(会長というのは包容力がある地元の子じゃないと務まらないと思う。僕は昔から包容力がないから。学級委員位なら高3までやりました。僕以上に包容力のないのが今は同人やコスプレ界を仕切ってたりするけど。
  いずれにせよ小学校の備品にテレビカメラが入るというのは、子供の意識をかなり変えたと思う。    2/12)  
  

 ●「欽ちゃんの仮装大賞」の第1回は79年。当然初回からアニメ系などの仮装は存在していた。
 ●この頃、神戸で開催された『ミニコミフェスティバル』などのイベントで、「アニメ・コスチューム大会」が催される(79年の場合、5月5日神戸市立長田勤労市民センター)。
  このイベントは同人誌販売のコミックフェアーと、アニメ・コスチューム大会などの参加者募集をしていたようなので、形式としてはかなり先駆的だったと言っていい(アニメ・チャリティー上映会もしていたようだ。気持ち的に「24時間テレビ愛は地球を救う」の手塚アニメからの流れだろうか?手作り玩具小物バザールもしていたらしい)。
  同様のアニメコミックファンイベントが日本各地に複数表れ始める。(2009_1/21)
 


 ● 70年代終盤のアメリカの悪役キャラブームについて。この頃、海外でも悪役キャラが見直されて来る動きがあり、
  例えばアメリカの某モンスター誌でも、ダースベイダーコンテストで、ワールドSFコンベンションなどでダースベイダーのコスプレなどが流行っている例を挙げ、
  「なぜ君はスターウォーズの他のヒーローヒロインでもなく、スタートレックのスポックやカーク船長でもなく、何故ダースベイダーが好きなのか?それを教えてもらいたい」・・・というコンテストをしている。
  別にコスプレに限ったコンテストというわけではないんだけど、そういうコンテストをした理由が世界SFコンのコスプレだ、って所が面白い。また、それまではSFコンでのコスプレは、どちらかというと正義のヒーローヒロインに寄ったコスプレが多かったのでは?ってのも垣間見えるわけだが、
  この「ダースベイダーが好きな理由を述べよそしてダースベイダーと会ったら君は・・・コンテスト」を掲載したのはアメリカの老舗モンスター雑誌なので、なんというか悪役モンスターキャラ全般ブームを盛り上げようとしてコンテストに仕立てたって感もある。 (笑; ハロウィンなので・・・  2016_10/29 6:31)


 ●  同時にこの頃(70年代終盤)、アメリカでは、過去の「キングコング」などのモンスター映画のリメイク、また、イタリア発のロメロ監督の「ゾンビ」第1作などの公開、また類似のテレビ番組などのブームがあった。そして同時に、「特殊メーキャップ」技術に対する、ファンの興味が熱くなってくることになる。
   右の画像は当時の某モンスター雑誌の広告。「MAKE UP KIT for MONSTER LOVERS」(モンスターを愛する者たちの為のメイクアップキット)というタイトルで「FLEX FLESH(=自由肉)」各種が売られていた。
   自由肉というか自在肉と訳してもいいのかもしれないが・・・・いわゆる フォームラテックス(レイテックス) に近いものだと思われる。「キングコング」「ホラー」「モンスター」の3種で、種別によりキングコングの顔の再現、フランケンシュタインなどの再現、モンスター顔などの再現(目の位置の変更なども含む)が出来た。色や硬度による種別だろうか?・・・当然ハロウィン仮装にも多用されたと思われる。
   この種の商品があるのとないのとで、日本のいわゆるコスプレと、海外におけるハロウィン仮装は、かなり質が変わって来る事になったのかもしれない。例えば自由肉を使えばいわゆる「妖精の耳」なども比較的手ごろに作る事が出来るわけで、その用途は比較的広範である。
   画像は大きな広告だが、より小さい広告も誌面で長期掲載され続けた。広告モデルには少年の画像が使われていて、第一の対象年齢は少年だったようだ。これらの特殊メークアイテムの利用者から次世代のアメリカの特殊メーキャップアーティストが生まれて行く事になった。
   このほか吸血鬼のキバなどもこの種のモンスター仮装では定番ですが・・・それは日本でも売られています。
   多分モンスターラバーのLOVERは、ゴムのラバーとのかけ言葉なんだね・・・

   『自由肉』かぁ・・・僕的には自由肉は女の子で充分かなぁ。うがー! ( ← ハロウィンですからw ・・・この程度のジョーク位ゆるせー  2016_10/29 7:24)




 NEW● 1970年代後半にはキャラクターショーも完全に定着して、日本全国のデパート・スーパー前や遊園地など、色々な所で催されるようになっている。
   写真は70年代末期の東映アニメ系のキャラクターショーの場合。「キャプテンフューチャー」「キャプテンハーロック」「キャンディキャンディ」「銀河鉄道999」「長靴をはいた猫」のペロなど。なぜか「キャ」音始まりが多い♪
   マスクをつけている以外は完全にコスプレとして出来上がっていると言える。そういう意味では初期のコスプレイヤーのコスチューム製作上の目標は、とりあえずこれらのキャラクター着ぐるみのスーツの作りだっただろうとも言える。999ショーの筈なのに、何故か脇にマグネロボガ・キーンやジャンクーゴがいてボーダーレスだったりするのがお茶目。まぁどれも松本零士系ではあるか(^^);;;  (2009_9/3)


 NEW ● この頃アニメファンが集まっていた初期のアニメショップについて。以下、当時の文芸春秋より抜書き。初期のアニメファンには有名な店です。

○ 新宿の「アニメック」。各地のデパートでアニメファン開拓のために精力的にイベントを開催していたラポート社のパイロットショップ。1978年6月1日開店。ヤマトをはじめとしてほぼ全てのキャラ商品を販売。原画セル、生セル、台本も販売。自主制作アニメの上映会などもやる予定(79年時点)との事。多分やったでしょう、うん。
○ 武蔵野市の「あいどる」。東映本社関係のものなら何でも揃っていた。店内飲食や情報交換は不可だったが、「闘将ダイモス」「宇宙魔神ダイケンゴー」「魔女っ子チックル」等人気アニメ原画セル、設定資料、シナリオ、アフレコ台本などは豊富。カレンダー、ポスターなども。
○ 練馬区の「キャスフ」。和光プロのすぐ隣りにある店(和光プロは「アンデス少年ペペロの冒険」「妖怪伝・猫目小僧」「激走ルーベンカイザー」後に「楽しいムーミン一家」など)。面積は狭いが、原画セル、シナリオ、生セル、アニメカラーなどのアニメ用具、同人誌を販売していた。生セル10枚300円、アニメカラー一瓶250円。店内ではジュース、コーラなど飲食可能でファンの情報交換場になっていた。アニメーションのファンクラブも作られ、隔月の会誌や通販、スタジオ見学、上映会などの特典があった。
○ 同じく環七通りをはさんだ近くにあった「まんが画廊」。東京のアニメショップとしては草分け。1976年(昭和51年)9月開店。自主制作をするファン用にトレスマシンを置いていて、セル一枚100円(生セル持込だと80円、20枚以上は1枚につき10円割引)でトレスできた。コーヒーやゼリーなど飲食可能。「ダイターン3」や「ラスカル」などの原画セルも販売していた。

 というか、この本の表記だと東映のアニメポリス・ペロがまだ書かれていないんですが(浪人時代は新宿のペロに僕もよく行ってたけど)、ペロは80年ごろ大阪で最初にOPENした店なので・・・。
 あと、漫画専門店としては大阪府堺市の「わんだ〜らんど」が日本の草分けで、80年2月に開店しています。
 それらアニメショップ群については80年代のページにまた書きます。 (2015_1/15 2:19)



 NEW● 79年〜80年ごろにかけて、西武園ゆうえんちで「SSW」(西武園宇宙秘密基地の略)というテーマ館が出来る。監修は石森章太郎氏で、海外SF映画的なセットを使って宇宙アクションを演出したテーマ館( 画像 )だったのだが、その後、右画像のようなオリジナルヒーローが誕生し、園内各所でアトラクションを繰り広げるようになる(右は80年東映アニメの会社パンフ画像)。この企画はどちらも東映アニメが行なっている。ヒーローのマスクは、初代仮面ライダーの企画段階のデザイン「クロスファイアー(十字仮面)」の流れをくんでいる。
   単独の遊園地オリジナルのヒーローであり、80年代から始まる初期アトラクブームに影響を与えたものといえるかもしれない。後のご当地ヒーローの走りとも言える。コスプレ周縁に影響を与えた事という事で一応。 (2009_9/3)


 NEW● 70年代後半には、日本のロボットアニメや特撮などが、アジアやヨーロッパ、アメリカのTVで放映されるようになって行き、キャラクター商品も海外で売られるようになる。
   右は海外版のマジンガーZの子供用変身セット(ショーグンウォリアーズのシリーズ)。お面とロケットパンチと衣類らしきものがセットにされている。
   こうして海外の子供にも日本のアニメ特撮キャラクターは認知され、外国人の日本アニメコスプレイヤーが生まれてくる基盤が出来た事になる。(まぁ、海外の方がキャラコスプレは古いので、作品さえ入ってくれば玩具がなくてもコスプレやっちゃう大人は多かったのかもしれないですが。  2009_9/3)


 ● ジョントラボルタ主演の「サタデーナイトフィーバー」(77年)が78年7月に日本でも公開されたり、日本でもディスコが再ブームになった。当時はアースウインドアンドファイアーの「宇宙のファンタジー」などが流行ったりした。子供の頃からこの辺の曲はどこかで聞いていて、自分も好きだったような気がする。
   (ディスコ自体はもっと昔からある。初代リカちゃん前後の時期はゴーゴーやモンキーダンスが流行ったし、ウルトラセブン37話「盗まれたウルトラアイ」(68年)でもゴーゴークラブ「NOA」が登場している(こちらのサイトを参照)。ある意味あのゴーゴークラブ内で催眠下の人々が全員ウルトラアイのコピーをかけて出てくる光景は、後のコスプレダンパを予見しているとも言える(いや、催眠云々関係無く;)。
   ポールモーリアの楽曲も70年代には日本のディスコでヘビーローテーションされていた。)
   ディスコブーム期とアニメブーム期が重なったので、ヒットしたアニメや特撮の曲がディスコアレンジされてレコード発売されはじめたのもこの頃。ディスコ的な需要があったのかどうかは判らないけれど、とりあえず79年4月には右写真の本で広告されているように「ディスコ・ウルトラマン」などのレコードが発売されている。もう片面はアニメ「ザ・ウルトラマン」のディスコアレンジ。ともにロサンゼルス録音。この広告は児童誌にも載ったので僕も覚えている。
   ていうかO●Tやア●メージュなどの雑誌は小学当時から立ち読みしてた←おこづかい600円じゃ買えませんでした;)
   ・・・他にも「不滅の宇宙戦艦ヤマト ニューディスコアレンジ」や「ルパン三世79 ディスコバージョン」などのレコードが販売されたりしている。(2009_2/5)


 ● アニメの曲がディスコ化されたのは・・・多分最初はニーズと同時に一発ネタ目的だったのかもしれないが、それが80年代にディスコ・一般・アニメファンに伝わるにしたがって、アニソンでダンスをしたがる層が増えたり、ディスコパーティーのようなものに発展し、アニソンダンパ → コスプレダンパなどに発展していく。ただ、間違いないのは当時のディスコやDJがアニメファンを許容しなければ後のアニソンダンパブームはなかったという事。
   コスプレダンパも私服を着たダンス客に対して排他的な空気になったのは、90年代末期の事である。この辺は順を追って。
   80年を過ぎたころから各人気アニメの曲は他にシンセやクラシックアレンジも増えるようになり、コロンビアのデジタルトリップ・シンセサイザーファンタジーシリーズなども発売されるようになる。が、80年代になるとその内全てのアニメの曲がディスコ調のロックやポップスやテクノ的音楽になった為、わざわざディスコアレンジと称されることは少なくなっていった。逆にオーケストラ的なアニメ主題歌は少なくなってくる。
   (2009_2/5)



1980〜89年頃について → コチラ






 ※コスチュームプレイという呼び名は80年頃までは使われていない。某ろーどの創刊号にもコスプレの文字は見当たらず、扮装と書かれている。(「欽ちゃんの仮装大賞」の第1回は79年)
  狭い場所でやっているので撮影許可などは取れれば取るわけだが、今のように「イベント風景すら絶対に撮影してはならない」と、現在のコスプレ広場以外では撮影できない形式になったのは90年代前半の事である。   (それまでにサークルブースへの撮影禁止、などの段階を経ている。理由は同人誌も著作権を侵害している要素があるので、作者と同人誌がまとめて撮影されるとやっかいだから)
  仮装行列というのは60年代の昔から自己アピールであって、元は「祭り」と同じ地域行事なので、祭りである以上絶対に人には撮られるし、それを避ける事はできない。僕が「撮られたくなければコスプレをしない方がいい」というのは、つまり仮装行列時代から考えればそういう事だからです(僕自身は基本的にコスプレの無断撮影はした事ないですが。80年代なら風景くらいは撮ってたですが)。
  僕は昔から写真文化には興味あったし、過去の「日本カメラ」や「アサヒカメラ」の昔の投稿基準が殊更問題あったとは思っていない。ことに祭りの行列に肖像権が関わるなんて実際考えられない事である。アサカメなどの投稿基準が変わったのも2000年を過ぎてからだと思う。
  それらが問題にされるようになったのは93〜4年ごろに雑誌メディアにコスプレの存在がおおっぴらにされることが起こって、それで大量に多くのカメラ小僧がイベントに流入し、性的盗撮で小遣い稼ぎをするようになった為です。
  自分はそういうのが嫌いなので、今でもカメコと呼ばれると蔑称のように感じる。実際カメラ小僧なんて言葉は昔からアマチュアカメラマンから投稿グラビア誌マニアへの蔑称です。
  肖像権というのは写真を被写体に無断で、大量メディアに流されたり、金儲けされると困るという事で、人権擁護と個人利益保護の観点から重要ではある。が、撮影された写真が雑誌やネットに流出しない限りは、普通の風景撮影自体は本来問題ないはず(肖像権侵害を申し立てるには申告が必要)である。
  そして彼らカメラ小僧の存在が、現在の風景撮影禁止、破ればフィルム等記録メディア没収、持ち越み禁止機材を使用すればカメラ機材やケースごと即没収、というイベントスタッフ側の不当没収の正当化にも利用されてしまっているのが現状。何度も書いてきたので詳しくは書きませんが。




     
 ●日記に最初更新してから「仮面をつけて行う宗教祭祀がいつから発生したと思っているんだ」と書かれたりしているし、その辺もコスプレの起源のひとつだろうかとは思いますが、
  一応、それらの「神仏もしくは超自然の存在と合一化」するという祭りにおける行為と、キャラクターコスプレというのは、なりきる対象が存在を信じられているか、人間による被造物(作品キャラか)という点で違うと思うし、ミクラスの顔のモデルになったインカの仮面にしろ、吸血鬼や妖精や半魚人にしろ伝説の存在なのであって、
  「キャラクター」とは違うと思っています。
  ていうか自分は「名前の意味」の研究で、どこの神話伝説のどの存在やetcが・・・(以下略)も研究してきたわけなので(周知の通り)、
  その辺を突っ込まれると僕のポンコツ頭ではわやになってしまうと思うわけです。極力ライトに書かせてください。僕は神々や魔物や各種カリスマとの合一化だけがコスプレイヤーの目的ではないと思ってるので。


一応11月7日分はここまで。次に書く時はこの下に書きます。

● このカラーは11月8日追記。
● このカラーは11月9日追記。
  11月10日、各説明用画像更新
● このカラーは11月12日追記。
● このカラーは1月12日追記。





 

 
 
 


by Kohji_molimoto(れくと=森本浩司)
(※ 最近首都圏でカメコしている、森本ま●と=頂●禿氏 とは 別 人 です。)